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Chinto物語 その27 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.27)
数学科に変わったのが、昭和36か37年、橋元君や浅井君達が南山を卒業したのが昭和42年、敦子さんが南山中学に入学したのがたしか昭和43年だったよね。翌年、44年に孝君が南山に入学してきたのだと記憶しています。南山は、神言会というカトリック修道会の経営する学校ですので、校長は、神父様です。神学生として男子部で学び、神父様となられて再び校長として男子部にみえた方もいます。すなわち、教え子が校長だったり。南山には、男子部と女子部があって別学なので、校長のほかに、もう一人、副校長が必要だったのです。神父様の校長が、男子部に籍があれば、副校長は女子部、その反対の時もあるのです。私が、男子部で、昭和48年に教頭、50年に副校長になったのですから、二人共、南山に在学中だったと言うわけですねえ。特に、男子部にいた孝君は居心地があまりよくなかったでしょうね。
 名古屋にはトヨタ自動車を始めとして、国際的な会社が多く、海外勤務から帰国した人のお子様の学校のこと(帰国子女)でお困りの方が多かったようです。トヨタの社長から南山で何とか帰国子女の受け入れを考えてもらえないかと言う話が起こり、、私自身が、昔の帰国子女だったこともあり、その受け入れを担当することになりました。これが、国際部の誕生のきっかけとなりました。国際部の事は、次回にしましょう。


■★まっと★のコメント
なるほど、昭和30年代から50年代までは本当にいろいろとあったわけですなぁ。姉・敦子、そして★まっと★自身も在学してたわけだし、父・徹も仕事がやりにくかったことでしょうね。
決して出来の良い息子ではなかったから仕方ないですね。居心地・・・・嫌なこともありましたが、それなりに楽しく中学、高校生活を送っていました。やはり、父上のほうが大変だったのではないでしょうか?国際部の設置準備期間からは一段と父親の帰宅は遅かったですね。一般企業との絡みもあったのでしょうね。国際センタービルの建設などにもかかわっていたわけですし、父・徹にとってももっともハードな時期だったのではないでしょうか。それと同時に仕事そのものにも張り合いがあったでしょうね。だんだんと偉いお方になられながらも、授業を担当してましたね。『教壇に立たなかったら教師である意味がない。』と豪語しておられましたが、いま、その意味がようやくわかってきたように思っていますよ。教壇に立つという意味が教員にとって、どれほどの意味があるのかを、習得するのに、自分も何年もかかってしまったわけですね。
国際部開設にまつわるおはなしが続くわけですね。楽しみです。

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KOZOU

名古屋はほんとに国際色豊かでしょうね。
お父様は国際部の先がけになられたわけでしょうね。色々ご苦労も多かったでしょうが、やりがいもあったでしょうね。
by KOZOU (2009-04-18 21:43) 

★まっと★

KOZOUさん(●⌒∇⌒●)
父の現役時代のもっとも大きな仕事かもしれません。
でも、ミッションスクール・・・・
父の名前で卒業証書を渡すことはなかったんですよね。。
そんな父がちょっとだけかわいそうに思いました。
by ★まっと★ (2009-04-18 22:00) 

gyaro

国際部の誕生。。。
お父様がそれに深く関わられたのですね!
輝かしい功績がたくさんおありで敬服いたします。

私の父は、倒産した勤め先の備品をいかにして
売りさばいて自分の懐に入れるかという事に
深く関わりがあったようです。。。(/_\)
困ったものです。
by gyaro (2009-05-31 23:19) 

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