父の死・・・大きすぎるほどの出来事(11月17日更新) [『ぶん★文★ぶん』]
自分の中に「父が死ぬ」という文字が頭の中に浮かび始めたのは今年の夏を過ぎた頃だったかもしれない。
カレンは自分がその準備を少しずつ始めることに非常に否定的だった。
しかし、父を長男としてしっかり送ることは自分にとって人生の中でもとても大きなイベントだと考えていた。
それだけに失敗や手落ちは自分が許せなかった。
父の遺影になる画像を・・・・。すでに二年前に写真館で撮影したものがあった。
実際、遺影にと考え、家族写真を撮りながら父一人の写真も撮影しておいた。
写真が出来上がったとき、自分たちが知っている父に比べると細く小さくなってしまっていて、
その迫力は何も感じられなかったことがとても悲しく、
これは遺影としては無理だね・・・・って、母とも話したほどだった。
しかし、亡くなる直前の父と比べてみたら、
それはそれは立派な父だったのかもしれない。
いま、こうして見返してみても、とても良い遺影だと思う。
カレンには礼服はあるのかともうここ数年はなんども問いただしたものだ。
カレンは仕事用の黒いスーツが多いのでまったく問題はなかった。
実は問題があったのは自分だ。
ステージ衣装はあるが、礼服と名の付く黒いスーツは持ち合わせていなかった。
父の人生の終焉ステージ、、、、、何気にステージ衣装で父を見送ることになった。
ある意味、自分はステージ衣装で父を送るのを望んでいた部分があるかも・・・・
父がいなければピアニストという道は開けていなかったはずだから・・・・・。
父の引退前後からの生活は楽しくも有り、また、癌との戦いでもあった。
特に最後の4年間は父にとってもつらい日々だったのではないだろうか。
80才を過ぎてから大腸癌のため人工肛門となり、
手先もあまり器用ではない父にとってはかなり大変だったと思う。
母の手厚い看護と介護。父がそのことに感謝していたのか、
当たり前だと思っていたのかは定かではないが、
母がいつも父の傍らで父の世話をしていた姿はカレンの目にもまた自分の目にも焼きついている。
そして、亡くなる3週間前頃だろうか・・・・父は食べ物、飲み物を欲しがらなくなった。
この時点で父の体力が低下することは言うまでもない。
父の様子があまりにも心配になり札幌の姉に連絡。
姉は名古屋に来てくれた。その頃は父は横になっている時間が多くなっていた。
姉は父が家の中を動きやすくなるように部屋の片づけを始めた。
父がバス停から自宅まで歩けなくなってきたので自分は父に車椅子を購入。
家族全員で父の最期を真剣に考えはじめた。
日が経つにつれて、父の体力は減少した。
病院での点滴を2~3日に一度打ちにいく。
しかし、ドクターからは「本人は楽になりますが、これはあくまでも延命治療です。」と家族に話した。
父も、そして家族も延命は望んでいなかったが、
父はまだ生への執着心が感じられたので、
家族全員で協力し、父の点滴のために父を病院へ運ぶ。
姉が連絡してくれて、札幌の義兄も名古屋に来てくれた。
その時点で家族はある意味、覚悟ができていた。
それでも、ドクターが父に「入院しますか」とたずねると、「いいえ、帰ります。」と元気に答える。
確かに入院は二度と帰宅できないことを意味している。
それを父は知っていたのだろう。
ドクターも非常に協力的だった。何があっても必ず救急車を呼んでください。
そしてこの手紙を救急隊員に渡してください。と言って、一通の封筒に入った手紙を渡された。
父は家族がそろうことが大好きだった。
父に母が義兄も11月3日には名古屋に来てくれることを伝えていたので、
日付は若干混乱していたのだろうが、「健二くんはきたかね?」と母に聞く。
母は「3日にくるからまだだよ。」
「そうか、健二君がこれば全員そろうな。」と、うれしそうな顔で言った。
その頃、父の身体はもう癌で蝕まれていたに違いない。
あちこち痛がり、立つことも座ることも、そして寝ることも大変な毎日になってきていた。
そして、11月3日、義兄が名古屋に到着。一家がそろった日だ。
父は居間のソファーで寝ていることが多かったが夕食時にはテーブルに着くといった。
家族全員で父を居間からダイニングへ移動させた。
三日の夜は父は具合が悪そうだったが、、、、
それでも家族がそろうことがとてもうれしかったのだろう。
そして、4日。もう、点滴を終えてちょっと顔つきにも生気を感じられた。
父が亡くなる前日の夜。(実際には前々日)
ほんの少しだけテーブルに着いた父、そして、母のビールを一口なめた。
父が「本当に福岡先生(名古屋記念病院の主治医)はいい先生だなぁ~~。」
あぁ~~っ、と言いながらビールを喉に通し、その後、父は再びソファーへ、
そして、ベッドへと移動して睡眠。
幸せの団欒・・・・最後のひと時だった。
そして、翌日は自分が仕事を終えて帰宅したのが23時ごろ・・・・。
ダイニングには義兄がいた。
父は通常ならベッドに寝ているはずの時間なのに、
居間のソファーにいた。帰宅の報告を父に・・・。
すると父は姉を促し、ベッドに入るという。
車椅子に父を乗せ寝室へ。
自分も手伝おうとするが、姉が義兄に手伝いを頼む。
自分は札幌公演、名古屋公演、横浜公演を控えているので、
姉は自分が怪我でもしてお客様に迷惑をかけないよう、気遣ってくれた。
そして、父はベッドルームへ。
もう、父は自分の力でおきることも寝ることも座ることさえもできない、
父が寝室で、「ごめんねぇ~~。こんなんになっちゃって・・・・・。」という。
なに言ってんだよ!!
そんな情けないこと言うなよ!!
俺の親父だろっ!!
父の寝室にはもういられなかった・・・・
涙が止まらない・・・泣いた泣いた!!
こんなにも涙が出るものかって怒れるほどに泣いた。
そして、母の冷蔵庫から缶ビールを一本。
義兄と飲んだ。
自分は遅い帰宅だったので、隣の自宅に戻り、夕食。
すると、義兄から電話。
「お義父さんの呼吸がおかしいから、今夜が山かも・・・。」とのこと。
夕食もそこそこ、カレンと再び隣の本宅へ。
父の呼吸は荒かった、。
でも、こちらの話は理解しているようだった。
返事もしてくれた。
姉が父の肩をさすり、カレンが父の手をさする。
自分は父の右手をもって脈を感じながら父の顔を見ていた。
かけられる言葉・・・・見つからない。
「お父さん、孝だよ。わかる??」
なんとなくうなづいてくれている。
「大丈夫???」
再びうなづく。
時折、強く父が手を握り締めてくれる。
痙攣を起こしているだけかもしれない。
しかし、自分には父が心の中のいろいろな思いを伝えているように感じた。
自分にはどうしようもない・・・父の瞳孔が開いていくのがわかる。
停められない。つらそうな父、どこを見ているのかもわからない。
そんな父を見ている自分もつらい。
どうしたらいいんだ・・・・・・
もう、何も考えることができない。
つらそうな父を見ていて口から出てしまった言葉・・・・・・
「もう、がんばらなくていいよ・・・・。」
あぁぁぁ・・・・言ってしまった。
父はある意味、この一言を待っていてくれたのかもしれない。
すぅ~~~~~っと、父の呼吸が止まった。
逝ってしまった・・・・・・・。
つらい時間・・・・父にも自分にも・・・・・
しかし、見方をかえると、我々はとっても幸せな家族だと思う。
父を家族全員で、父が望んだ全員で見送ることができたんだから。
そう、父のおかげでこんな大切な時間を家族で共有できたこと。
やはり父はかっこいい!!
気が付けば6日の午前0時を回り15分ごろのことだった。
義兄が救急車をが呼んだ。
母、カレン、自分が父に付き添って病院へ。
姉夫婦は徒歩で病院までやってきた。
父の死亡時刻は2013年11月6日午前0時46分となった。
父の葬儀は南山教会でと思っていたので、南山教会への出入りされている葬儀社に電話。
父を病院で着替えさせ、葬儀社の用意してくれた車で自宅に遺体は戻ってきた。
死亡診断書とともに・・・・・。
真夜中にもかかわらず、父の主治医、福岡先生も駆けつけてくれた。
そして、葬儀社と朝までお話し、費用から日程まで大体のことが決定した。
自分が札幌公演を控えていたので、週を越えての通やと告別式になってしまった。、
自宅が大好きだった父。一日でも長く自宅に居られたことを喜んでいたかもしれない。
毎日葬儀社の方が父の遺体のためにドライアイスを交換してくださった。
自分も毎日名古屋にいる限りは父の顔の白布をめくっては父と話をした。
亡くなって一週間かけて父はお骨になったことになる。
札幌公演を終えて、11日。父の前夜式(通や)。
たくさんの方が南山カトリック教会に来て下さった。
自分の10学年上の学年の先輩。父が大好きだった学年。
中学二年から高校3年まで担任を受け持った学年は
父にとってもっとも印象に残る学年だといつも話していた。
本当にたくさんの卒業生が参列してくださった。
家族であの学年は相思相愛だったんだねぇ・・・って話した。
父も年齢的に若く、教諭人生の中で最高の時代だったのだろう。
そしてテレビの青春ドラマのような先生を父は演じきり、
教え子の皆さんは、その頃の社会環境から強い日本を背負う団塊の世代の先輩方。
なんだかその師弟関係はやきもちを焼いてしまいそうなほど熱い。
父は前夜式の夜は教会に宿泊。寂しいのではないか・・・・という姉。
そこで、父のソファーにいつもいるキティーちゃんが父の添い寝をした。
白いカサブランカに赤い薔薇・・・・父の大好きな花ばかりでとてもシンプルではあるが、
父らしい祭壇。家族は皆満足。
前夜式(通や)をおえて、我が家でピザをおつまみに酒盛りする福山家。
とにかく毎日のように酒盛り・・・・一緒に食卓を囲めなかった父には申し訳ないが、
いやいや、毎日良く飲みました。
父も喜んでいるはず・・・と勝手に家族は信じている。
英国の家族からも薔薇の花が届いた。
そして、12日は告別式、
父の大好きな学年は前夜式だけではなく
告別式にもたくさん集まって下さった。
本当にありがたいお話だ。
そして、父が大好きな学年の先輩方に是非とも父の棺を担いでいただけたら・・・と思い、
頼んでみたら快諾していただけた。
親族からは義兄、そして団塊の世代の先輩方が父の棺を担いでくれた。
父も絶対に喜んでいると思う。
そして、火葬場、拾骨、帰宅・・・・・最後は父をしのび・・いったん帰宅してから焼き鳥へGO!!
最後まで福山家らしいお葬式を済ませた。
慌ただしい中での父の告別でした。
間に自分の演奏会も挟んだりで、しっちゃかめっちゃか。。。。。
今となっては少し笑えることもいっぱいありますが。
この一週間、、、、本当に家族全員お疲れ様だった。
そして、ちょっとへんな言い方ですが、
福山家の大切な思い出がまたひとつできたような気持ちでいられること、、、
やっぱり父に感謝。
o(*'▽'*)/☆゚'・:*☆
今、父はこんなにちっちゃくなっちゃった。
カレンは自分がその準備を少しずつ始めることに非常に否定的だった。
しかし、父を長男としてしっかり送ることは自分にとって人生の中でもとても大きなイベントだと考えていた。
それだけに失敗や手落ちは自分が許せなかった。
父の遺影になる画像を・・・・。すでに二年前に写真館で撮影したものがあった。
実際、遺影にと考え、家族写真を撮りながら父一人の写真も撮影しておいた。
写真が出来上がったとき、自分たちが知っている父に比べると細く小さくなってしまっていて、
その迫力は何も感じられなかったことがとても悲しく、
これは遺影としては無理だね・・・・って、母とも話したほどだった。
しかし、亡くなる直前の父と比べてみたら、
それはそれは立派な父だったのかもしれない。
いま、こうして見返してみても、とても良い遺影だと思う。
カレンには礼服はあるのかともうここ数年はなんども問いただしたものだ。
カレンは仕事用の黒いスーツが多いのでまったく問題はなかった。
実は問題があったのは自分だ。
ステージ衣装はあるが、礼服と名の付く黒いスーツは持ち合わせていなかった。
父の人生の終焉ステージ、、、、、何気にステージ衣装で父を見送ることになった。
ある意味、自分はステージ衣装で父を送るのを望んでいた部分があるかも・・・・
父がいなければピアニストという道は開けていなかったはずだから・・・・・。
父の引退前後からの生活は楽しくも有り、また、癌との戦いでもあった。
特に最後の4年間は父にとってもつらい日々だったのではないだろうか。
80才を過ぎてから大腸癌のため人工肛門となり、
手先もあまり器用ではない父にとってはかなり大変だったと思う。
母の手厚い看護と介護。父がそのことに感謝していたのか、
当たり前だと思っていたのかは定かではないが、
母がいつも父の傍らで父の世話をしていた姿はカレンの目にもまた自分の目にも焼きついている。
そして、亡くなる3週間前頃だろうか・・・・父は食べ物、飲み物を欲しがらなくなった。
この時点で父の体力が低下することは言うまでもない。
父の様子があまりにも心配になり札幌の姉に連絡。
姉は名古屋に来てくれた。その頃は父は横になっている時間が多くなっていた。
姉は父が家の中を動きやすくなるように部屋の片づけを始めた。
父がバス停から自宅まで歩けなくなってきたので自分は父に車椅子を購入。
家族全員で父の最期を真剣に考えはじめた。
日が経つにつれて、父の体力は減少した。
病院での点滴を2~3日に一度打ちにいく。
しかし、ドクターからは「本人は楽になりますが、これはあくまでも延命治療です。」と家族に話した。
父も、そして家族も延命は望んでいなかったが、
父はまだ生への執着心が感じられたので、
家族全員で協力し、父の点滴のために父を病院へ運ぶ。
姉が連絡してくれて、札幌の義兄も名古屋に来てくれた。
その時点で家族はある意味、覚悟ができていた。
それでも、ドクターが父に「入院しますか」とたずねると、「いいえ、帰ります。」と元気に答える。
確かに入院は二度と帰宅できないことを意味している。
それを父は知っていたのだろう。
ドクターも非常に協力的だった。何があっても必ず救急車を呼んでください。
そしてこの手紙を救急隊員に渡してください。と言って、一通の封筒に入った手紙を渡された。
父は家族がそろうことが大好きだった。
父に母が義兄も11月3日には名古屋に来てくれることを伝えていたので、
日付は若干混乱していたのだろうが、「健二くんはきたかね?」と母に聞く。
母は「3日にくるからまだだよ。」
「そうか、健二君がこれば全員そろうな。」と、うれしそうな顔で言った。
その頃、父の身体はもう癌で蝕まれていたに違いない。
あちこち痛がり、立つことも座ることも、そして寝ることも大変な毎日になってきていた。
そして、11月3日、義兄が名古屋に到着。一家がそろった日だ。
父は居間のソファーで寝ていることが多かったが夕食時にはテーブルに着くといった。
家族全員で父を居間からダイニングへ移動させた。
三日の夜は父は具合が悪そうだったが、、、、
それでも家族がそろうことがとてもうれしかったのだろう。
そして、4日。もう、点滴を終えてちょっと顔つきにも生気を感じられた。
父が亡くなる前日の夜。(実際には前々日)
ほんの少しだけテーブルに着いた父、そして、母のビールを一口なめた。
父が「本当に福岡先生(名古屋記念病院の主治医)はいい先生だなぁ~~。」
あぁ~~っ、と言いながらビールを喉に通し、その後、父は再びソファーへ、
そして、ベッドへと移動して睡眠。
幸せの団欒・・・・最後のひと時だった。
そして、翌日は自分が仕事を終えて帰宅したのが23時ごろ・・・・。
ダイニングには義兄がいた。
父は通常ならベッドに寝ているはずの時間なのに、
居間のソファーにいた。帰宅の報告を父に・・・。
すると父は姉を促し、ベッドに入るという。
車椅子に父を乗せ寝室へ。
自分も手伝おうとするが、姉が義兄に手伝いを頼む。
自分は札幌公演、名古屋公演、横浜公演を控えているので、
姉は自分が怪我でもしてお客様に迷惑をかけないよう、気遣ってくれた。
そして、父はベッドルームへ。
もう、父は自分の力でおきることも寝ることも座ることさえもできない、
父が寝室で、「ごめんねぇ~~。こんなんになっちゃって・・・・・。」という。
なに言ってんだよ!!
そんな情けないこと言うなよ!!
俺の親父だろっ!!
父の寝室にはもういられなかった・・・・
涙が止まらない・・・泣いた泣いた!!
こんなにも涙が出るものかって怒れるほどに泣いた。
そして、母の冷蔵庫から缶ビールを一本。
義兄と飲んだ。
自分は遅い帰宅だったので、隣の自宅に戻り、夕食。
すると、義兄から電話。
「お義父さんの呼吸がおかしいから、今夜が山かも・・・。」とのこと。
夕食もそこそこ、カレンと再び隣の本宅へ。
父の呼吸は荒かった、。
でも、こちらの話は理解しているようだった。
返事もしてくれた。
姉が父の肩をさすり、カレンが父の手をさする。
自分は父の右手をもって脈を感じながら父の顔を見ていた。
かけられる言葉・・・・見つからない。
「お父さん、孝だよ。わかる??」
なんとなくうなづいてくれている。
「大丈夫???」
再びうなづく。
時折、強く父が手を握り締めてくれる。
痙攣を起こしているだけかもしれない。
しかし、自分には父が心の中のいろいろな思いを伝えているように感じた。
自分にはどうしようもない・・・父の瞳孔が開いていくのがわかる。
停められない。つらそうな父、どこを見ているのかもわからない。
そんな父を見ている自分もつらい。
どうしたらいいんだ・・・・・・
もう、何も考えることができない。
つらそうな父を見ていて口から出てしまった言葉・・・・・・
「もう、がんばらなくていいよ・・・・。」
あぁぁぁ・・・・言ってしまった。
父はある意味、この一言を待っていてくれたのかもしれない。
すぅ~~~~~っと、父の呼吸が止まった。
逝ってしまった・・・・・・・。
つらい時間・・・・父にも自分にも・・・・・
しかし、見方をかえると、我々はとっても幸せな家族だと思う。
父を家族全員で、父が望んだ全員で見送ることができたんだから。
そう、父のおかげでこんな大切な時間を家族で共有できたこと。
やはり父はかっこいい!!
気が付けば6日の午前0時を回り15分ごろのことだった。
義兄が救急車をが呼んだ。
母、カレン、自分が父に付き添って病院へ。
姉夫婦は徒歩で病院までやってきた。
父の死亡時刻は2013年11月6日午前0時46分となった。
父の葬儀は南山教会でと思っていたので、南山教会への出入りされている葬儀社に電話。
父を病院で着替えさせ、葬儀社の用意してくれた車で自宅に遺体は戻ってきた。
死亡診断書とともに・・・・・。
真夜中にもかかわらず、父の主治医、福岡先生も駆けつけてくれた。
そして、葬儀社と朝までお話し、費用から日程まで大体のことが決定した。
自分が札幌公演を控えていたので、週を越えての通やと告別式になってしまった。、
自宅が大好きだった父。一日でも長く自宅に居られたことを喜んでいたかもしれない。
毎日葬儀社の方が父の遺体のためにドライアイスを交換してくださった。
自分も毎日名古屋にいる限りは父の顔の白布をめくっては父と話をした。
亡くなって一週間かけて父はお骨になったことになる。
札幌公演を終えて、11日。父の前夜式(通や)。
たくさんの方が南山カトリック教会に来て下さった。
自分の10学年上の学年の先輩。父が大好きだった学年。
中学二年から高校3年まで担任を受け持った学年は
父にとってもっとも印象に残る学年だといつも話していた。
本当にたくさんの卒業生が参列してくださった。
家族であの学年は相思相愛だったんだねぇ・・・って話した。
父も年齢的に若く、教諭人生の中で最高の時代だったのだろう。
そしてテレビの青春ドラマのような先生を父は演じきり、
教え子の皆さんは、その頃の社会環境から強い日本を背負う団塊の世代の先輩方。
なんだかその師弟関係はやきもちを焼いてしまいそうなほど熱い。
父は前夜式の夜は教会に宿泊。寂しいのではないか・・・・という姉。
そこで、父のソファーにいつもいるキティーちゃんが父の添い寝をした。
白いカサブランカに赤い薔薇・・・・父の大好きな花ばかりでとてもシンプルではあるが、
父らしい祭壇。家族は皆満足。
前夜式(通や)をおえて、我が家でピザをおつまみに酒盛りする福山家。
とにかく毎日のように酒盛り・・・・一緒に食卓を囲めなかった父には申し訳ないが、
いやいや、毎日良く飲みました。
父も喜んでいるはず・・・と勝手に家族は信じている。
英国の家族からも薔薇の花が届いた。
そして、12日は告別式、
父の大好きな学年は前夜式だけではなく
告別式にもたくさん集まって下さった。
本当にありがたいお話だ。
そして、父が大好きな学年の先輩方に是非とも父の棺を担いでいただけたら・・・と思い、
頼んでみたら快諾していただけた。
親族からは義兄、そして団塊の世代の先輩方が父の棺を担いでくれた。
父も絶対に喜んでいると思う。
そして、火葬場、拾骨、帰宅・・・・・最後は父をしのび・・いったん帰宅してから焼き鳥へGO!!
最後まで福山家らしいお葬式を済ませた。
慌ただしい中での父の告別でした。
間に自分の演奏会も挟んだりで、しっちゃかめっちゃか。。。。。
今となっては少し笑えることもいっぱいありますが。
この一週間、、、、本当に家族全員お疲れ様だった。
そして、ちょっとへんな言い方ですが、
福山家の大切な思い出がまたひとつできたような気持ちでいられること、、、
やっぱり父に感謝。
o(*'▽'*)/☆゚'・:*☆
今、父はこんなにちっちゃくなっちゃった。
Shinさんの企画My Favorite Photo 2013から来ました。
涙で途中読めなくなりました・・・
うちももういい年の父親が居てるので親孝行しておきたい。。。と思いました。
家族写真、とってもとっても素敵な1枚ですね。
お父様のご冥福を心よりお祈りいたします。
by **NAO** (2014-02-14 14:13)
私は 9年前に母を亡くしました
月日が経っても 寂しさは薄れません
でも その分他人に優しくなれている
自分を感じます
経験者にしか分からない 親との別れです
by sumijuni (2014-02-14 16:16)
こんばんは全然知らなくてお悔やみ申し上げます。
夫も逝って3年余・・・あの世で幸せでいてくれると信じています。
亡きお父上と語らいの時を持ったかもしれませんね。
お母様をお大事に・・・
by 侘び助 (2014-02-14 23:30)
**NAO** さん(●⌒∇⌒●)
ご来訪ありがとう♪(#^ー゚)vございます。
自分はこんな私事の写真を今年はどうしようか・・・って思ったんです。
でも、2013年、そして56年間の自分の人生の中で
ある意味、もっとも大きなイベントでもあったので、
この写真を選ばせていただきました。
自分なりの親孝行。。。。
できたような気がしています。
by ★まっと★ (2014-02-15 12:11)
sumijuni さん(●⌒∇⌒●)
確かに時間がどれだけ経過しても寂しさは薄れることがないものだと思っています。
しかしながら、父に残された時間が少ないとわかった時点で
自分なりにあれこれ準備を始めておいたので、
とてもスムースに前夜式、そして葬儀を進められることができました。
父の歴史に泥を塗らないように、
とにかく、どれだけの人々が集まってくれるかわからなかったものですから、。
気を使うことも多かったですが、
母や姉夫婦、そして最愛の妻・カレンのきょうりょくもあり
父にも喜んでもらえる状態で送ることができたと思っています。
by ★まっと★ (2014-02-15 12:14)
侘び助さん(●⌒∇⌒●)
コンサートツアーの真っ只中・・・
父はそんなときに帰天しました。
父らしいちょっとした意地悪だったのかもしれません。
そして、同時に試練をくれたのかもしれませんね。
今度は英国の義父の様態が悪く、
来週、一度★カレン★を英国に帰すことにしました。
我々が両親を見送るなんて・・・・
若い頃には考えたこともなかったのですが、
実際にその事実に直面し、自分は長男として、
そして★カレン★は長女として
しっかりと両親を見送らねば・・と心に再確認しています。
by ★まっと★ (2014-02-15 12:17)
「親孝行出来ましたね。」
一番最初に浮かんだ言葉です。
by 扶侶夢 (2014-02-19 21:31)
扶侶夢さん(●⌒∇⌒●)
ご来訪ありがとう♪(#^ー゚)vございます。
そうですね。
親孝行できました。.:♪*:・'(*⌒―⌒*)))ニコッ♪
by ★まっと★ (2014-02-20 12:18)
ご冥福をお祈りします。
訪問出来なくてお父様が天国に召されたことを存じ上げませんでした。
by ちゃーちゃん (2014-05-15 19:15)
ちゃーちゃん(●⌒∇⌒●)
この長い文章を読んでくださったんですね。
ありがとうございました。
昨年11月6日に父が帰天しました。
かけがえのない父でした。
そして、いま、ひとつの大きな山を越えられるような思いを感じています。
誰もがとおらなければならない道ですものね。
まだまだ若いつもりです。
これからも頑張れます。
ありがとうございます。
by ★まっと★ (2014-05-17 07:57)
Shinさんのところから伺いました。お父様、本当にカッコいいと思います。それを支える家族も、大変だったとは思いますがカッコいい。それができる方も、ご家族も少なくなりました。
最後の家族写真、いいお写真です。
by YUKO (2014-12-28 09:26)
YUKOさん(●⌒∇⌒●)
★まっとらんど★にご来訪まことにありがとう♪(#^ー゚)vございます。
父は2013年に帰天いたしましたが、家族の心の中にいつも逝き続けてくれておりますし、今、50代半ばになった自分出さえも、やはり人生の目標は父だといえることに誇りを持っております。
年末より家内の実家がございます英国に滞在しておりまして、お返事が遅くなりましたこと、大変恐縮いたしております。
★しんちゃん★とは長い長いお付き合いをさせていただいております。
自分勝手なブログを綴り続けて降りますが、よろしかったらまたご来訪くださいませ。
by ★まっと★ (2015-01-03 11:56)