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31回目の結婚記念日 その9 [Diary]

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エッセイ『婚約から結婚』(青年期)

日本にカレンが二週間の滞在をした1985年の春。
自分の両親は本当に喜んでくれました。父と母に結婚したいという意志を伝えました。
かわいいカレンがお嫁さんに福山家にやってくる。
それだけで、あの無口な父までもがとても喜んでくれました。
そして、アメジスト(カレンと自分の誕生石)の石を入手して、指輪をつくり、
5月の連休明けに自分は英国に向けて出発しました。

勿論、カレンの両親にご挨拶するのが目的でした。
ロンドンにはカレンが迎えに来てくれていて、その足でヨークシャーのカレンの両親のもとに出かけました。
1985年5月10日のことでした。
カレンの両親とはいろいろと世間話をしました。
それまでにも何度かカレンの両親とは顔をあわせていたし、
ごく自然に普通のお話をしていましたが、
早速、本題・・・・・即ち『婚約』について話し始めたとき、
ものの見事にカレンの両親には反対されてしまいました。
日本という国を知らないカレンの両親、そして、カレンは愛だけのために結婚まで決意をかためていたとき。
両親がこの結婚を簡単に許してくれると、どこかでカレンも自分も安易な思考を持っていたのかもしれません。
宗教の違い、そして白人以外は人間ではないような言い方までされてしまいました。
今考えてみれば、反対するための理由をあちらこちらから拾い集めたように思います。
カレンをそばにおいておきたかったのでしょう。

日中、何時間話しても結論は出ませんでした。
そして、日も落ちて夕食の時間。カレンの両親は我々を夕食に誘ってくれました。
とにかく、自分としてはアメジストの指輪をなんとしてもカレンに渡さなくては、
英国まで飛んできた意味がなくなってしまう。。。。。

そして、夕食も終わり、デザートの時間になって、
『今回、自分が英国に帰ってきたのは、この指輪をカレンに渡すためです。彼女に渡すことを許してください。』と、
カレンの両親に言いました。
そうしたら、カレンの両親は『Congratulations(おめでとう)』と言ってくれました。
当然、自分もカレンもこの言葉を信じたし、とても幸せに思いました。

そして、ロンドンに二人で戻り、自分は日本に帰国したのです。
この時点で挙式の日程や細かい詳細はななにも決めておらず、
とにかく婚約をすることがこの英国への旅の目的だったわけです。
そして、日本に戻り、カレンとはまた文通の日々に戻りました。
(当時、携帯もスマホもなかったですから・・・・・・・)
カレンは本当に毎日手紙をくれました。
(当時はまだ電子メールもありませんでしたから。。。)


そして数ヶ月がたった9月のある日、、、、カレンからいつものように手紙が届きました。
『もう、わかれよう・・・。』という内容のものでした。
『・・・???????』・・・・・自分は何がなんだかわからなかったです。
ちょうどそのころ、カレンの妹の婚約話も進み始め、
カレンの母親がカレンに
『妹の婚約パーティーにはヨークシャーに帰ってくるでしょ?でも、その指輪はしてこないでね。』と
いわれたのがきっかけだったようです。
当時、カレンの両親はきっと自分が日本に一度帰ってしまったら、
この婚約を破棄することは簡単だと考えたようです。

そこで、カレンも考えました。
『この手紙を自分に書いて、もし、孝さんが英国に飛んできてくれたら、彼を信じよう。
もし、すぐに来てくれなかったら、この『愛』は終わりにしよう。』・・・
カレンにとっては一生最大のギャンブルだったようです。

日本でのんびり生活していたプー太郎の自分はあわてました。
まさか、英国でそんなことになっているとは知らなかったものですから、
その手紙を受け取って数日後には英国に飛んでいきました。
1985年10月のはじめのことでした。

ロンドンのヒースローには早朝の到着でした。スーツ姿に身を固めたカレン、、、
ゲートを出ると、泣いて佇んでいました。
『どうしたの・・??』とたずねると、
『ヒースロー空港まで、タクシーに乗ろうとしたら、
頭をドアにぶつけて、その時にあなたがくれたオパールのイヤリングを片方なくしてしまったの・・・』。
カレンはこう言って、泣くばかりでした。
自分にはわかりました。それもあるかもしれない。でも、それだけではないはず。
ほかに何かカレンは隠しているはず。
カレンは自分が来たことに対する安堵感。。。。
そして、誰にも相談できなかった両親とのやりとりなど、話したいことがいっぱいあったはず、
でも、長旅の自分を気遣って、その日は自分を部屋まで連れて行き、仕事に出かけていきました。

その晩、カレンから、いろいろな話を聞きました。
ショックでした。そして、カレンが今回あのメールを書いたのは自分と本当に結婚できるかどうか・・
自分を試すためだったことも話してくれました。
また、唯一、カレンの母親方の祖父母だけは我々の結婚に大賛成してくれていることも、聞きました。
カレンの両親の家から、祖父母の家までは歩いても5分ほどのところ。
自分がロンドンに来る前に祖父母に会って来たこと。
そして、もう、結婚後に英国にすむことはできないこと、結婚するためには英国を脱出しないと、
その糸口がないこと。数日間、寝る時間もないほどに話し合いました。

自分が英国に飛んでいったことでカレンは大きな覚悟を決めてくれました。
仕事、友達、そして家族とも離れて日本に自分が飛び出すことを。。。。。


当然、カレンの両親は反対しているわけですから、このことを伝えるわけにも行かず、
カレンが勤めていた音楽大学に妹が学生として在籍していたこともあり、
辞表は直接学長へ提出し、事情を話して内密に・・・・ということで・・・。

当時、カレンは妹と一緒にロンドンに住んでいました。
妹の目を盗んで、二人でいろいろと計画を立てました。

計画1 カレンのウェディングドレスを購入し、自分がそれを日本に持ち帰る。

計画2 クリスマスにはヨークシャーの実家に帰ると両親には伝える。

計画3 日本までの航空券を手配する。

計画4 英国の日本人の友達に事情を話し、年末年始の帰省フライトを同じ便にしてもらう。

・・・・・とにかく綿密な計画を立てました。


そして、カレンと一緒に百貨店へ出かけ、ウェディングドレスを購入。
英国の習慣として花嫁のドレスは当日まで花婿は見ることはありませんし、
ドレスは花嫁が母親と一緒に選ぶというものでした。
そういったカレンの生活習慣の中の文化さえも守ってあげられることはできませんでした。

そして、航空券の手配。
早速発券してもらいカレンのハンドバッグの中にそれから2ヶ月間、しまいこんでおくことになるのです。

カレンは通常の日々を送りながらも、指折り日本へのフライトの日を待ち続けました。
きっと針の筵のような生活だったと思います。

自分は日本に帰り、結婚式の準備に取り掛かりました。
カレンのフライトが1985年12月20日で、日本に到着するのは12月21日。
少なくとも一週間以内に挙式と披露宴を済まさなくては、
そのまま福山の家に滞在させることは難しいという両親の考えもあり、
名古屋市内のホテルで披露宴会場の予約。
結婚式は父が勤務する南山学園のカトリックのお御堂。
計画はどんどん進み、結婚式の招待状作成から席表作成など、本当に忙しい2ヶ月でした。

カレンは親しい仲間達とのフェアウェルパーティーや、唯一我々の結婚に賛成してくれた祖父母への挨拶。
勿論、5分と離れていない両親の家ではなく、祖父母の家で時間をすごしたようです。
ロンドンへの帰り際には祖父がブラッドフォードの駅まで送ってくれて、
しっかりハグしてくれて『幸せになれ。』って一言だけ言ってくれたそうです。
そのあと、祖父は振り返ることもなく駅をあとにしたと、カレンが泣きながら話してくれたこと、絶対忘れません。
カレンは従姉弟中でも一番早く生まれているので祖父母には、ことのほかかわいがられていたんですね。

そして、妹の婚約パーティー。両親に言われたとおり、指輪をはずして参加したそうです。
そのときには『次に帰ってくるのはクリスマスね。』と母親に確認され、
うなずいてロンドンに戻ったと聞いています。

12月20日、(英国時間では19日)自分はカレンを成田まで迎えに行くために、スタンバイしていたのですが、
カレンから国際電話が入りました。
『両親にエスケープがみつかった。何とか日本まで行くから心配しないで!!』とのことでした。
自分は20日に名古屋を出て早朝到着予定のカレンを成田で向かえる予定でしたが、
とにかくカレンが英国を出発しないことには、名古屋を出発できない状態になってしまったんです。
カレンの妹が自分の中だけにはしまっておけなかったんですね。
カレンの様子がおかしいと思った妹は、こっそりカレンのバッグを覗き込み、
カレンのハンドバッグの中の航空券を見つけてしまったんです。
しかし、妹は出発前日まで両親に言わずに心に秘めていたんです。
出発前日、とうとう自分の心の中に収めておくことができなくなってしまったのでしょう。
両親に電話してカレンが日本へ行ってしまう事を伝えたということです。
カレンは友達に連絡して、自分のアパートをあとにし、パッキングもそこそこに友達の家に一泊。
そして、空港に向かったとのこと。どうにかカレンがフライトに乗り込んだと言う連絡が友人から入ったのは、
日本時間でもう21日になっていました。
友人もカレンを見送ったあと、クリスマスパーティーに参加し、帰宅したあとに連絡をくれたんです。
とりあえず、カレンが飛行機に乗ったということで、翌朝、自分は成田へカレンを出迎えに行ったのです。
壮絶な一日でした。
一生忘れることは無いと思います。

とにかく、自分の両親のすごいところは、自分がいらいらしている間に、
もしカレンが日本にこのフライトでこられなくても、結婚式までには一週間ある。
(挙式は28日)だから、自分が往復すれば、つれてこられるという計算までしていたようです。
もう、すでに招待状も出ているし、披露宴のほうも準備万端。
ここで、花嫁不在の結婚式を披露するわけには、当然いきませんから・・・。
考えてみれば、とんでもないギャンブルを家族ぐるみでしていたわけです。
当時は父も南山学園理事として現役でしたし、なんと言っても福山家の長男の結婚式ですからね。

でも、無事にカレンも日本に到着し、結婚式を迎えることができました。
本当に自分以上にカレンには壮絶な思いをさせてしまったことでしょう。
カレンの激痩せぶりがすべてを物語っていました。
出会ったころのふっくらしたカレンではなく、本当に痩せ細ったカレンは最高の笑顔で結婚式に臨んでくれました。
自分はガチガチに緊張していたんですが、カレンは本当に輝いていました。
勿論現在も輝いていますよ。

それまでの苦悩から開放された喜びと、この結婚のために歩んだ道程の苦しかったことを察知せずにいられませんでした。
国際結婚・・・勿論自分にとっても初めてのことだし、カレンにとっても初めてのこと、、、、、
知らないことだらけでした。
区役所にいったら、そのまま結婚できるのかと思ったら、そう簡単には行かないんですね。
考えてみればカレンは日本に国籍がないわけですから、
英国でも、日本でも結婚を成立させるためには英国領事館での手続きなど、
二人の結婚が成立するためには2ヶ月ほどの時間を要しました。
でも、必死に書類を集めたり、結婚を成立させるためには本当に何でもできました。
カレンが日本に入国してちょうど2ヵ月後、1986年2月14日(自分の誕生日)に日本では自分が筆頭として戸籍が作られ、
1986年2月21日(カレンの誕生日)に英国でも籍が入り、
やっとの思いで、名実共に夫婦になることができたのです。

カレンが日本に来てから、何度もカレンの両親から自分の実家に電話が入りました。
そのたびに『カレン、電話にでる?』って、聞いたんですが、
カレンは首を横に振るだけでした。
それから丸々一年、カレンは両親と口をきくことはなかったんです。

1986年10月に、(我々が結婚した翌年)英国の妹が結婚しました。
勿論、我々は参列することはありませんでした。
いつの日か、姪っ子や甥っ子がどうして両親の結婚式に、我々が居ないのかと写真を見ながらたずねる日も遠くないのでしょう。
この話を姪や甥に話さなくてはならない日、辛いことになりそうです。
我々のために唯一、英国サイドで我々の結婚に賛成してくれたカレンの祖父母までもが、
我々の結婚のあと、カレンの両親とは口をきくことがなかったんです。
そして、1986年11月にカレンは日本でピアニストデビューします。
このときのプログラムを持って同じ年12月に英国のカレンが勤めていた音楽大学で
自分とカレンはリサイタルを開催しました。
前にも述べたように、妹はこの音楽大学の学生でしたから、当然、妹の耳にもその知らせは入り、
演奏会当日、妹に会うことができました。
最初、妹は自分のことを人攫いでも見るような顔でにらみつけて、わーっと泣き出しました。
でも、これしか我々が結婚できる方法はなかったのだと、彼女もわかっていたのだと思います。

そして、ヨークシャーの祖父母の所にも行きました。
両親のところには本当に近いんですが、祖父母の家の窓際の部屋に出ることは無く、
誰にも見つからないように祖父母との時間を過ごしたことを覚えています。
ヨークシャー滞在中も結局、カレンは両親の家である実家に立ち寄ることも無く、
ロンドンに戻りました。

そして、日本に帰る前日のこと、
我々はロンドンでは自分の英国時代のマネージャーの家に宿泊していたんですが、
突然、カレンの父親が現れました。
我々が英国に帰っていることを知り、そして、自分のロンドンの住所に飛んできたようです。
それもそのはず。自分が留学中に使用していたピアノをカレンのアパートに移動したときの、
ピアノ運送会社の契約書から自分の住所を入手したようです。
一年ぶりにカレンも父親に会いました。
とても重苦しい空気が漂っていました。
しかし、結婚して一年という歴史がもうすでに積み上げられていたのです。
翌日、我々は日本に向けて英国をあとにしました。

この再会のときに、我々は日本の新居の住所と電話番号をカレンの父親に渡して日本に帰国したのです。
しかし、カレン自身にはまだ心の準備ができておらず、
こちらから英国に帰国の報告などの電話をすることは、まだありませんでした。
一年という時間が作り出す距離は思った以上に遠いものでした。

そして、数週間後、カレンの母親から国際電話が入りました。
もうすでにカレンも日本で仕事をしていましたので、ちょうどカレンが不在だったときのことです。

『バーバラよ。カレンの母親のバーバラよ。昨晩、私の父親が心臓麻痺で亡くなったの。カレンに伝えて頂戴。』
自分はとても信じられませんでした。
ほんの、数週間前に一緒に食事をしたり、散歩をしたり、すばらしい時間をすごしたばかりなのに、、、。

ちょうど日本に帰ってきて、英国滞在中の写真も現像が仕上がって
(まだデジタル時代ではなかったので・・・)
アルバムを作成したところでした
。レストランで一緒に食事をしたときの写真や、祖父母の自宅での写真。
カレンが帰ってきたらこのことを伝えなくてはならないし、どうすればよいのかわからなかったです。
そして、カレンが帰宅し、二人でアルバムを見ながら、、、、、

『ねぇ、カレン、英国楽しかったね。一年の時間を要したけど、お父さんとも会えたし、話もできたし、
これはこれでよかったんだよね。』

『これ見てごらん、おじいちゃん、めッちゃ楽しそうだよね。本当にカレンのことがかわいくて仕方ないんだね。
素敵なおじいちゃんだもんね。素敵な笑顔だもんね。』

自分はカレンの顔が見られませんでした。だって、涙が止まらなくって、、、、、

『こんなに素敵な笑顔、もう見られないんだよ・・・・・・。』

自分の声はもう上ずってしまいました。

カレンが『どういうこと・・??』って、聞き返すので、

『今日、カレンが仕事に出かけてすぐに、義母さんから電話が入ったんだよ。
それで、おじいちゃんが亡くなったって・・・』

つらかったなぁ・・・カレンも一気に涙が溢れ出し、二人してわ~ん、わ~~ん、泣いてしまいました。

そして、カレンは実家に電話して、一年ぶりに母親と会話したんです。
まさか、こんなことで一年ぶりに母親と話をすることになるとは、カレンも、また母親も思っていなかったでしょう。
祖父はきっと娘(カレンの母親)と孫(カレン自身)が会話できる状態を作ってくれたんだと、
今でもカレンと話しているんです。

結婚記念日は1985年12月28日ですが、
籍が英国でも日本でも入ったのは1986年2月のこと。
そして、親子の関係が修復できたのは祖父がなくなった1987年1月のこと。

両親とも自然体で話せるようになったのは1987年12月のクリスマスにヨークシャーの実家に帰ったとき。
足掛け3年にわたる、我々の結婚へのプロセスということになるのでしょうか。
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