SSブログ

愛の三部作 by クライスラー [YouTube 動画]

愛の喜び 
愛の悲しみ

美しきロスマリン

もともとはバイオリンの作品です。
ピアノ伴奏。。。。
それを連弾バージョンで演奏しています。

■愛の喜び
愛の喜び(あいのよろこび)(ドイツ語: Liebesfreud)はフリッツ・クライスラーのピアノとヴァイオリンのための小作品。文字通り喜びを表す晴れやかな作品で、愛の悲しみと対になって演奏会に取り上げられる。
三部形式。ハ長調。4分の3拍子。
Allegro
重音奏法の主和音で勢いよくはじまる。6度・3度の音程で単純かつ親しみやすい。中間部はヘ長調の穏やかな響き。

■愛の悲しみ
愛の悲しみ(あいのかなしみ)(ドイツ語: Liebesleid)はフリッツ・クライスラー作のヴァイオリンとピアノのための楽曲。愛の喜びと一対になっている。一見簡単な演奏でありながら、独特の情感を発揮させるなど、ヴァイオリニストには必携の演目である。
イ短調。4分の3拍子。簡単な三部形式。
Tempo di laendler
レントラーの緩い三拍子に乗って、ヴァイオリンが五度音程の憂いを帯びた旋律を奏でる。低音弦の高音ポジションで高い音を奏でることで渋い効果を上げている。
中間部はイ長調。落ち着いた中にフラジオレットを盛り込むなどヴァイオリンが主体となった技巧的演出を見せる。

■美しきロスマリン
美しきロスマリンは、フリッツ・クライスラーのヴァイオリンとピアノのための小作品。ローズマリーというその名に違わず明るく繊細な曲想で人気が高い。
4分の3拍子。ト長調。簡単な三部形式。愛の喜び・愛の悲しみと一連の作品として演奏会に取り上げられる。
Grazioso
主題は主和音アルペジョと半音階のスピカートを組み合わせた軽快なもの。演奏自体は平易で簡単ながら効果の高い名曲である。
中間にはヘミオラを活用してリズムに変化をつける。また主題は特段変奏もなく数回繰り返されており時間調整も容易。リサイタル最後のアンコールピースとして適している。

フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年2月2日:ウィーン - 1962年1月29日:ニューヨーク)はオーストリア出身で、世界的ヴァイオリニストで、作曲家である。後にフランス~アメリカ国籍となった。ユダヤ系。

■クライスラーの生涯
ジークムント・フロイトと親しい医者の子としてウィーンに生まれる。父親は大の音楽好きでアマチュアの弦楽器奏者でもあった。その父の勧めで3歳の頃からヴァイオリンを習い始めたが、あまりにも飲み込みが早く、7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学してヨーゼフ・ヘルメスベルガーに演奏を、アントン・ブルックナーに作曲を学び、10歳にして首席で卒業した。在学中、楽員を訪問したヨーゼフ・ヨアヒムらの大家の演奏を聴き、さらに感性を研ぐこととなった。その後、パリ高等音楽院に入学。12歳で再びそこを首席で卒業した。

1888年、13歳の時にアメリカのボストンで初演奏会を開いて成功を収め、翌年、オーストリアに凱旋帰国。帰国後は「神童」としてもてはやされることを望まなかった父親の勧めで、一般教養を身につける意味もあり高等学校に進学。高等学校では医学を勉強するが肌に合わず本格的に勉強するまでには至らなかった。20歳になった1895年にはオーストリア帝国陸軍に入隊、親衛隊に配属され予備役ながら将校に任官する。一時はヴァイオリンを捨て軍人になろうと決心したこともあったが、家庭の都合で除隊の後音楽界に復帰する。復帰後、再びヨーロッパ各地で演奏活動を開始していった。クライスラーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験を受けた事もあるのだが、「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落とされている。この頃から、レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始める事となった。1899年、アルトゥール・ニキシュ指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演。この公演はウジェーヌ・イザイに激賞され成功裏に終わり、クライスラーの演奏活動はこの頃から軌道に乗り始めるようになる。1902年にはロンドンデビューを果たし成功。それに気をよくししばらくの間はイギリスを本拠地として活動する。同年にはニューヨークで結婚。この頃からレコーディング活動も始める。

1914年に勃発した第一次世界大戦では、陸軍中尉として召集を受け東部戦線に出征するが重傷を負い、後送されて間もなく名誉の除隊。除隊後はニューヨークの自宅に戻り、療養しながら演奏活動を再開する。しかし、アメリカにとってオーストリアは敵国だったため、活動はあまり軌道に乗らなかった。大戦終結後はヨーロッパ楽壇に復帰。1923年には来日を果たしている。1924年から1934年までベルリンに拠点を置いていたが、ヒトラーによってナチが政権を獲得すると状況は一変する。クライスラーは最初、大衆的人気に目を付けられ、同じユダヤ系の指揮者レオ・ブレッヒ(彼と録音したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、クライスラーの名盤の一つに数えられる)ともどもドイツへの残留を要請されるが、断固拒絶。1938年、オーストリアがドイツに併合されたのを機にフランス国籍を取得し、パリに移住した。1939年、ヨーロッパに第二次世界大戦の足音がしのびよると、アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、1943年にはアメリカ国籍を取得。以後の生涯では一度もヨーロッパに戻ることはなかった。アメリカ国籍取得の2年前には交通事故で重傷を負い、一時は「再起不能」とも伝えられたが奇跡的にカムバック。放送への出演やリサイタルを断続的に行うも、負傷の後遺症(視力障害や突発的な記憶喪失など。音楽的な感覚は奇跡的に障害から逃れた)が尾を引いたこともあり、1950年に引退。1962年、ニューヨークで交通事故にあい、「20世紀最高のヴァイオリニスト」と称され惜しまれながら死去した。

金に困っている若い演奏家に、自分の持っている楽器を気前よく分け与えるなど、陽気で気さくな性格であったという。また、楽器や美術品の蒐集でも知られていた。引退後にそれらのほとんどを手放しているが、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の自筆原稿とエルネスト・ショーソンの「詩曲」の自筆原稿は手放さず、後にアメリカ国会図書館に寄贈された。




nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 5

コメント 2

KOZOU

この曲は好きですね。
泣くようなバイオリンもいいですね。
by KOZOU (2009-04-02 21:20) 

★まっと★

KOZOUさん(●⌒∇⌒●)
もともとバイオリンの楽曲ですが、ピアノに編曲されていてもなかなか美しい楽曲に仕上がっています。
.:♪*:・'(*⌒―⌒*)))ニコッ♪
by ★まっと★ (2009-04-03 05:52) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。