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Chinto物語 その11 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.11)
名古屋にきて,最初に新婚生活を始めた車道の大邸宅もすぐに売れて、慌て住む家探し。やっと桜山に(下構町)見つかりました.藤井さんといわれる方の住む二階を借りることになりました。今までが豪邸住まいだっただけにそれと較べると月とスッポンの違いでした。場所的には、歩いて南山まで行けるし、毎日の買い物も桜山の交差点までも近いし便利でした。敦子さんがその時は、すでにお母さんのお腹のなかにおり、聖霊病院にも比較的に近いし良い所でしたが、二階住まいがイマイチで探しつづけました。昭和31年4月27日、聖霊病院にて敦子さん誕生!私が大正15年生まれ。大正15年と言うのは、昭和元年と同じだから、私と敦子さんの年の差は、丁度30と言うことになります。生まれた時から敦子さんは小さかったようです。お母さんからもその時のコメントがあることでしょう。小さかったがとても元気な赤ちゃんでした。 やっと星が丘に公団住宅ができ、入居出来るようになりました。当時、ご存知のように東山公園から先は何も建ってなくて殺風景でしたが、歩くと空気が一味違うのが明らかにわかると言う環境は抜群に優れていました。交通機関も東山公園までは何もなく歩くより外ないという今では想像も出来ない片田舎の星が丘でした。孝君は、ここでお母さんの体内で宿り、昭和33年2月14日(聖バレンタインの祝日)目出度く誕生と相成りました。これからは、また明日の朝の私のお仕事です。


■★まっと★のコメント
間借り時代の福山家にはまだ自分の存在はないんですよね。だから、姉・敦子ほど桜山の記憶は確かなものではないと思います。星が丘に引っ越しても幾度か桜山を訪れていますが、ここはどこ??藤井さんたちはだれ??っていう感覚のほうが大きいようです。父・徹が30歳のときに第一子・敦子の誕生を迎えているのですね。そういうことは32歳のときに自分が生まれたことになりますね。東山公園から星が丘まではよく歩かされましたね。子供の足ではかなりきついものがありました。確か路面電車は走っていましたから、母が電車代をケチったということになります。
名古屋祭りのときに花電車や花バスを父・徹が子供たちに見せようと車で追いかけてくれたことを思い出しました。カーチェイスばりの運転で路面電車を追いかけたのは、今考えたらかなり危険だったのかもしれませんね。


■姉・敦子のコメント
とうとう二世が2人誕生いたしました。やっぱりヒヤシンス物語なのですから、二世どもの洗礼名についてもご説明が欲しいものです。せっかく誕生したんだから・・・・・!!!私は小さかったけど、★まっと★ドンはでかかったんだよね!生まれた時から・・・・・!だって、ちっととも出てこなかったって聞いてるよぉ~。
2週間程むりやり、おなかの中にいたらしい!甘えん坊だったのなかなぁ~・・・・・ナハハハハッ!!!
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Chinto物語 その10 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.10)
離れ離れに住んでいても、毎日のような文通のやりとりによって、二人共結婚の意志は固まったようで、その準備も着々と進行し続けましたが、最大の問題は、二人して住む家の問題でした。たまたま,高3の生徒で、東京の大学を受験して合格し、一家全部が東京に引っ越すと言うことで、車道の大豪邸が売りに出されたのです。私が住む所を探していると言うことを聞きつけて、その家が売れるまで、その大邸宅に住んでも良いよとのことで、住むとこも決まり、いよいよ結婚ということになりました。博多のおばあちゃん(母・澤美の実家)は余り良い顔はしていませんでしたがね?1955年5月5日(昭和30年)京都の河原町三条のカトリック教会で結婚式を挙げました。マレット神父様はじめマリアの家の後輩達も来てくれました。大阪の輝男・茂子ご両人(父・徹の妹夫婦)も。河原町の三条教会は、現在、明治村にきて、保存されていますが、イメージがちょっと違うなあと言う感じです。 新婚生活は、こうして大邸宅に居を構えて始まりました。大学を卒業し、南山に就職して1年2ヶ月後のことで、当時の給料は1万3千5百円だったと思います。 当時としては、なかなか良い給料だったようです。ところが売れるまで住んで良いという大邸宅がすぐに売れてしまったのです。一ヶ月も住んだかなあ?そこから、また住む所を必死に探し始めたのです。それが、桜山の近くの二階住まい(間借り)です。間もなく敦子お嬢さんの誕生と言う段取りですが、以下は明日にしましょう。孝君は、まだ影も形もありません。では、次をお楽しみにね。


■★まっと★のコメント
そうそう、車道の大邸宅のお話も『夕食後の母の話』の中に幾度か出てきましたね。しかし、居住期間が短かったのか、あんまり自分としては印象がありません。やはり、姉・敦子お嬢様が誕生した桜山のほうが印象深いです。博多のおばあちゃん(母・澤美の実家)・・・すごい人でしたね。大好きなおばあちゃんでした。★まっと★自身はまだ誕生していませんね。次回には姉・敦子も自分・孝も誕生するのでしょうか?


■母・澤美のコメント
お父さんは車道にいた時からアルバイトで、家庭教師をしていました。月に4回行って2千円でした。バス代の往復料金を差し引くと一回が360円という計算です。アルバイトの帰りにパイナップルの缶詰を1個買ってくるのですが、その時代は350円でした。お父さんらしいと思いませんか・?今でもパイナップルの缶詰を見るたびに懐かしく思います。そして、桜山に引っ越してからは、桜山から南山学園(勤務崎)まで毎日歩いて出勤していました。帰りにはなぜか栄町経由でご帰還。コーヒー屋さんのはしごだったようです。堀先生をはじめ、いろいろ南山学園についての意見交換だったようです。メール読みながら思い出すことがたくさんあります。
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Chinto物語 その9 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語(NO.9)
和田澤美さんと初めてお会いしたのは、彼女が高校の3年生の夏休みでした。彼女は、ご存知のように福岡商業高校の生徒で,私の兄貴(故新二伯父さん)がそこの先生で、つまり教え子だったと言うことです。彼女は、当時、卓球部に所属していて、夏休みも卓球の練習がある筈なのに、何故か兄貴に誘われて五島まで来たのです。私は、その時、遅ればせながら、京都で大学生をしていて夏休みになって、何故かアルバイトもせず、五島に帰っていました。人間の運命というのは、こんなもんなのでしょうね。兄貴が彼女を五島までつれてきたのには、何か原因があったかも知れませんが、それは本人からコメントがあるかどうか私にはわかりません。五島でお会いしたのが初対面でした。夏休みも終わり近くなり、彼女は博多へ、私は京都へと戻ったのです。普通ならそこで『the end』ですよね。 運命の神様が微笑んだのでしょうかね。京都に戻って、一通の手紙を彼女に出しました。返事が来るとは余り期待していませんでしたが、その返事が来たではないですか。そこから文通が始まり、最初はたわいもない手紙で、今日はこうだったとか明日の予定はこうだと言う内容だったと記憶しています。ただ、毎日のように書いて出していましたからその量たるやすごいものでした。そして彼女は高校を卒業して、畑添(違ったかな?)と言う経理事務所に勤めに行き、翌年の3月、私の大学の卒業式に招待して京都まで来ていただき、卒業式にも父兄として参列してもらいました。その前後から、文通の内容も徐徐に変化して行ったのは事実のようですがね。私は昭和29年4月名古屋にやってきました.彼女との文通はますますその量が増える一方でした。大学の独身職員の宿舎に入れてもらいせっせと手紙をしたためましたよ。彼女もカトリックの勉強を本格的に始め、博多で洗礼を受けるにいたりました。霊名はマルチェリーナ。結婚について二人共真剣に考えるようになって参りました。では、あとは明日にしましょう。


■姉・敦子のコメント
いやいやぁ~楽しい!!!こんなに楽しくていいのだろうかぁ~???思わず、ニマニマして読んじゃいましたよ、父上のメール!!!お母さんが高校3年の夏休みで18歳?!結婚したのが21歳?つまり3年も文通してた訳???スゴイ!それにしても、お父さんがいきなりお手紙ねぇ~。高校にも問い合せしたというし、お父さんって、昔は手紙魔だった訳???
京都駅のキチガイさんの話もその中の1通ってことね!そんなにいっぱいある手紙でも印象深い手紙ってあるんしょうねぇ~。んんん、本当になんだかとってもおもしろくなってきたぁ~。


■★まっと★のコメント
母・澤美がもらった手紙の中ではかなり印象的なものだったんでしょうね。何度もこのラブレターのはなし(キチガイがいたって言う内容の手紙)聞いてますよね。ほかには印象的なラブレターはなかったのかなぁ?父さんの筆まめにはかなりおどろかされます。普段、あまりにも話さない人だけに文章にするとすらすらと言葉が羅列できるのでしょうか?それにしても、子供たちとしては、興味深いを通り過ぎてほほえましいというか、赤面というか・・・楽しい物語です。
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Chinto物語 その8 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語(NO.8)
いよいよ,先生に成ることに決まって、昭和29年名古屋にきました。当時、女子部と今の短大(当時はまだ短大はなかった)の間に、南山大学の独身者職員寮というのがあってそこに入れてもらいました。当時の校長は、ポンセレット神父様で、とても温厚なお方でした。生物の先生として、緊張しながらも、張り気って教壇に立ちました。まさしく新米教師というとこでした。高一から高三までの生物を担当し、当時,高一に松本君達、高二に眼鏡の玉水屋の津田君達、高三にブラザーの安井君達がいて、最初の教え子です。もう皆、60歳を超えていますから、50年近く前のことですよね。思い出します、毎日のように心を込めて手紙を書いていたと言うことを。あて先は、当然、和田澤美様宛です。君達のお母さんになられるお方のことですよ。今日はここまでにして、続きは、また次回のお楽しみにしましょう。


■★まっと★のコメント
教員生活も長いですから教え子さんたちの年齢もそれぞれに高くなっていますよね。まぁ、娘や息子がこんな年ですから、仕方ないですよね。でも、半世紀も前のことになるとは・・・・・・・。
和田澤美さま・・後に結婚して我々子供たちの母になるわけですが、とうとうここまでこぎつけました。
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Chinto物語 その7 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.7)
大学生活は,マリアの家を中心に、大学の研究室で、実験のお手伝い。当時、小麦の4倍体まではすでに出来ていて、木原研究室では、6倍体の品種を作ろうと顕微鏡で染色体を覗く毎日。これが実験遺伝学教室の生活の有様で、その中の一つのテーマを与えられて、卒業までの3年間で仕上げるというわけで、小麦の遺伝学だから時期的に一年に一度しか実験が出来ないので、失敗すると卒業が一年延びるので必死です。どうにか失敗もせずテーマをまとめあげ3年で、昭和29年に無事卒業することができました。次は就職のことです。ビールの原料は麦ですよね。京都の近くに大阪の吹田市があり、そこにアサヒビールの工場があり、先生の口利きでアサヒビールに就職が決まった途端に南山大学から話がきたのです。南山は文科系の大学ですが、『現在、理科系の学部を新設するため、文部省に申請中だから是非来て欲しい。』という話でした。当時は、私も熱心なカトリック信者の端くれだったので、困って木原先生と相談して、南山大学に行くことに決めたのです。当時の学長はパッへ神父さまでした。今でもそのときのことは鮮明に覚えておりますが、パッへ神父様が、本当に申し訳ないというお顔をして「実は、申請中だった理科系の学部が文部省からNOの返事が来ました。申し訳ないが、高校の方だったら何とかなりますが如何でしょうか?」ということでした。私としては、もうアサヒビールも断ったことですし、結局、南山高校に就職することになった次第でございます。昭和29年3月サワミ様ご臨席のもと京都大学の卒業式を終え、名古屋に向かったというわけです。従って、次回からは、サワミ様のお話と後はご存知名古屋の話となるのでしょうね。


■姉・敦子のコメント
ヒヤシンス物語、南山までこぎつけましたネ!アサヒビールに行っていたら、お父さんの人生どうなっていたのでしょう?なんだか不思議な気がします。テレビで見た元アサヒビールの重役さんと一緒に仕事してたんでしょうね。それとも、お父さんが行ってたら、その人行ってなかったりして・・・?!人生には、重要な分かれ道がいくつかあるみたいですね!
でも、今になって思えば、アサヒビールでもお母さんと結婚してただろうし、住む場所とか、出会う人たちは違ったかもしれないけど、お父さんの人生の充実度は変わらないのかもしれませんネ。


■★まっと★のコメント
姉が言う通りなのかもしれません。人生は本当にわからないものです。まぁ、父が血を見て卒倒するくせに東京大学の医学部を目指したというのはいまだに不可解ではありますが・・・・。アサヒビールに勤めていたとしても結局は姉も私もこの世に存在したのでしょうね。そんな気がします。
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Chinto物語 その6 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.6)
昭和22年憧れの旧制第三高等学校に入学し,白線3本の帽子とマント姿の三高生となり、希望に満たされた毎日を送ることが出来ました。いろいろな方にも巡り合うことができ、ある意味で、私の人生の変換期であったと思います。富沢神父様との出会い、公教要理の勉強、洗礼の秘蹟の受洗。マレット神父様との出会い、マリアの家の生活、どれをとっても私にとっては、懐かしい貴重な体験でした。霊名のヒヤチントについてお話し致しましょう。横文字でHyacinthと書く、8月17日(私の誕生日)の聖人です。アメリカ読みにするとハイアシンスとなるのですが、マリアの家では、すべてクリスチャンネームで呼び合い、信者の者は霊名で、信者でない人は、マレット神父様が一々クリスチャンネームをつけて呼んでいました。私のことを、始めは神父様もハイアシンスと呼んでいたのですが、発音しにくいのかそれとも親しみを込めてなのかはよくわかりませんが、いつの間にか、チントと皆が呼ぶようになりました.香りの良い球根の花ヒヤシンスもHyacinnthと書きます.ハイアシンス、ヒヤシンス、ヒヤチント、チントと呼び名はいろいろですが、すべて私のことなのです。昭和25年,三高を卒業して、次は、大学です。当時、最も難関だった(今も)東京大学医学部を受験して見事不合格.カトリックの勉強の所為にはしたくありません。実力不足でした。 一年間、五島で浪人生活をおくりました。陸士など横道を沢山歩いて、年齢的にもこれ以上遅れるわけにも行かず、医者になることは諦めて、確実に合格できるようにしようと考えました.いろいろ調べた所、京都大学農学部農林生物学科の実験遺伝学教室に、当時、小麦の研究で世界的にも有名で、ノーベル賞候補とも言われていた木原 均教授(理学博士)がいらっしゃる事を知り、よし!決定。受験して木原先生の門下生となることが出来ました。今回はここまでにして、大学生活と卒業後どうして名古屋にきたのかは次回の楽しみとさせていただきます。


■★まっと★のコメント
ここで東大受験失敗のお話、とてもうれしいです。なんだか『完璧』なはずの父がそうでもないのかな・・??という、ちょっとした安堵感が感じられます。チントという名前のなりたち、東大医学部(父・徹は血を見ると卒倒します。)のお話、そして京都大学入学のお話。どれも父の口からは初めて耳にすることだったりしますが、本当に興味深い話です。

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Chinto物語 その5 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.5)
マレット神父様は、当時、三高の英語の教授でした。私も三高で英語の授業を受けました。日本語は、授業中、一切話されず、発音の綺麗なお方でアメリカ語でした。当時、三高には学生寮があり、私は入らなかったけれど、三高生が沢山入っていました。原因は知りませんが、その寮が火事で全焼して多くの三高生が焼け出されたのです。その時、自分の宿舎に、焼け出された三高生を引き受けて、一緒に生活をして下さった方が、マレット神父様だったのです。そこからマリアの家が始まったというわけです。私は、寮に入ってなかったので焼け出されずに済みましたが、マリアの家には入れなかったと言うわけです。その後、神父様は官舎を出て、拡大して正式にマリアの家を作り、焼け出された学生のみならず、三高生だけでなく、他校の学生も引き受けて一緒に生活することになり、私もマリアの家にお世話になったというわけでございます。マリアの家では、一切、日本語で話をすることが出来ないというのが、第一の禁止事項でした。すべて英語で喋ると言う世界でした。名前もクリスチャンネームで呼ぶということで、我々信者は霊名があるので霊名で、信者じゃない者は、神父様が、一人一人クリスチャンネームをつけて下さってお互いに呼び合うという生活。学生としては(当時の)恵まれた楽しい生活でした。私は喋れないので、家の中では,黙って聞くだけ、外に出て日本語で喋るということをしていましたので少しも英会話はうまくなりませんでした.今,考えると全く残念です。本来なら平針(名古屋の自宅)辺りはカレンさんを中心に英語が飛び交わされていたことでしようにね。


■★まっと★のコメント
父。徹はこのように言っていますが、会話・・とまで行かずとも自分と★カレン★が結婚した当初、カレンがまだ日本語を話せないでいたときでも、我々の会話を聞きながらうなづいたり、微笑んだりしていましたから、絶対に我々の会話はまずほとんど理解できているのでしょうね。それはこのマリアの家で養われた英語力だったんですよね。でも、話すことはなかったです。会話にはならない・・。日本語でもあまり話さない人でしたから・・・。それが現役を退官した今はよくしゃべってますよね。不思議なほどです。
そうですよ、我々の結婚式披露宴終盤のとき、父の謝辞を今でも覚えています。『カレンには一日でも早く日本語を流暢に話せるようになってもらい、我々は老体に鞭打って英語に取り組もうと思っております。』そういったのは誰?
証拠のビデオもちゃんと残っていますよ。お見せしましょうか?ヾ(@゜▽゜@)ノ 
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Chinto物語 その4 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.4)
憧れの三高に合格して、いよいよ京都の生活が始まりました。両親は引揚者ですから、勿論、学費の仕送りは出来ません。育英資金をお借りしてあとはアルバイトです。家庭教師は勿論のこと、京都には、映画の撮影所があって、エキストラのアルバイトで当時の俳優さんとも共演いたしました。結構いい収入になりました。下宿探しをして、西陣の泉さんのところに下宿することになり、丁度そのまん前に西陣のカトリック教会があったのです。五島でも教会巡りをやっていたので、早速、西陣教会を訪問したら、そこの主任神父が富沢神父さんだったというわけです。当時、まだ若く欧州の留学から帰国したばかりで、意気投合して、公教要理の勉強がはじまったと言うわけです。富沢神父さんからカトリックの洗礼の秘蹟を受け、霊名をヒヤチントとつけたのです。誕生日の8月17日の聖人がヒヤチントだったからです。HYACINTHとかきます。ヒヤシンスともヒヤチントともハイアシンスとも略してチントとも言われるように成ったと言うわけです。富沢神父には随分お世話になりました。当時、カトリック学生連盟の顧問もしてみえて、私が京都カトリック学生連盟の委員長だったりしてお世話になりました。ご承知のように、その後、司教様に昇格され、札幌教区長になられた時もその叙階式に招待してくださって、札幌まで行った記憶もあります。私が下宿していた泉さん宅には娘さんが2人いて、妹が早苗と言って、その後、洗礼を受けて、故橋倉先生(南山学園・南山中学高等学校女子部・音楽教諭)と同じカテキスタに今もいるとおもいます。次は、ご存知、マレット神父様の登場です。


■★まっと★のコメント
なんだかこのあたりからカトリック信者として熱くなってきたんですね。泉さんのことは今ひとつよくわからないです。でも、父がお世話になったわけですね。富沢司教様は★まっと★の名前☆孝☆をいただいた方ですから覚えていますよ。ここでヒヤチントという名前の由来がはっきりしたわけですね。マレット神父様は父・徹が本当にお世話になった方なんだという印象は強いです。なぜならば母・澤美からもいろいろと聞いてますからね・・・・・。マレット神父様はマリアの家を主宰されていて、学生たちを預かっておられたようです。そして、学生たちのガールフレンドには面接があるとか・・・・・


■姉・敦子のコメント
さぁ~これで、チントちゃんの誕生ですね。マレット神父様にはお母さんもお会いしているのですよね!「アップルパイは出来ますか?」と聞かれた方かな???出来るようになるお約束だったはずなのに・・・・未だに、アップルパイを作った事の無い母様・・・・ナハハッ


■★まっと★のコメント
そうですね。。。。この件についてはいつもの夕食後の母の『お話タイム』でなんども話題に上りました。そして、★まっと★も姉の敦子も一度も母のお手製パイは食べたことがないのです。
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Chinto物語 その3 [Chinto物語]

■ヒヤチントの物語 (NO.3)
前回は、五島で家族の引揚げを首を長くして待ちながら、鯛の浦のカトリック教会にも通い、百姓をしながら,精神的に苦しい毎日だったというとこまででしたね。家族が引揚げてきて、さてどうしよう?私としてはどうしてももう一度,学校に行き直したいと言う希望でした。実は、敗戦後、陸士、海兵に一年以上在籍したものに限り、当時の高等学校(旧制)の2年生に編入試験が一度だけありました。まだ家族が引揚げてきてない時だったので、最も近くの佐賀の高校を受験しましたが不合格。家族が引揚げてから、昭和22年の高校受験に的を絞りました。マッカーサーの命令が出て、陸士、海兵に在学していたものは、その学校の定員の一割以内に抑えるようにということでした。そこで、私は、全国の高校に手紙を出して、陸士,海兵の者に何人の受け入れの枠があるのかを問い合わせたのです。そうしましたら、京都の第三高等学校が一番、受け入れの
余裕があったのです。じゃあ ということで三高受験を決めて、猛勉開始!本当に、その時は、死にもの狂いになって勉強しました。どうしても合格したかった。お陰で、無事、合格。天に登る程のうれしさでした。そうして22年(昭和)4月三高の一年生に入学いたしました。正にエリート校のピカピカの一年生でした。そこから京都の生活が始まりました。下宿探し開始。そして西陣の泉さん宅に下宿することになりました。そしてその下宿の前に、西陣カトリック教会があり、そこの主任司祭が富沢孝彦という神父様だったというわけです。


■★まっと★のコメント
父・徹も不合格の経験をしているんだなぁって、ちょっとうれしい気持ちになれます。父は『完全な人』、いや、『完璧な人』という感覚が知らないうちに培われていました。そう信じつつ何十年も★まっと★は生きてきたわけですね。母の教えのなかにも、そういった感覚はあったように思います。知らず知らずのうちに洗脳されちゃっていたんですね。姉もきっと同じように感じているはずです。


■母・澤美のコメント
チント物語、私も知らないことが沢山あります。子供たちが興味をもつのは当たり前、今ごろ面白い現象です。とても良い現象ですが、お互いに楽しみましょう。ただ思うことは、青春を,棒に振らされた若者がどれだけいたことでしょう?熱い思いがします。私も終戦の時小学6年、毎日、来る日も来る日も教科書を墨で塗りつぶす事、勉強もせず、まったくすべてが変化したのです。


■★まっと★のコメント
母が本当にたくさんの事を子供たちに話していました。経験のない戦争を母親として子供に伝えておきたかった部分があるのでしょう。今、教員として生徒たちに自分は経験していないけれども、話してあげられることがいっぱいあるのは母のおかげだと思っています。母の実写的な表現は姉と私を釘付けにしたものです。まぁ、単に母のオーバーアクションという表現もありますが、感謝しているのは本当です。
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Chinto物語 その2 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.2)
五島には帰ったものの、じいさん、ばあさん相手に畑仕事を手伝いながら両親が上海から引揚げて来るのを待つ毎日が続きました。五島は、ご承知のようにキリシタンの島ではないですか。そこで、退屈しのぎに教会巡りでもやろうかなあと思い、上五等の教会を歩いて訪問し始めたのです。榎津から歩いて一時間位かかる所に、鯛の浦と言う所があり、そこの教会を訪問した折に、神父様がみえて話しかけて下さるのです。とても良い神父様で、気も話も合いそうな方で、それ以来、度々、鯛の浦まで歩いて教会通いが始まったと言うわけです。両親が引揚げてきたのが、昭和21年ですので、約1年間、百姓の手伝いと鯛の浦通いの生活が続きました。戦争には負けるし、将来の見とうしもない最も精神的に行き詰まった時でした。それだけに教会というのが強く心に感じられたとおもいます。待ちに待っていた家族もやっと引揚げて来たし、さて、これから私はどうやって生きれば良いのでしょうか?と真剣に悩みました。どうしても、もう一度、学校に行って勉強したいと言うのが結論でした。次は、京都の生活、つまりチントの名づけ親が出現します。


■★まっと★のコメント
結構、このあたりはあまりよく知らない部分なんですよ。五島に帰ってきてから祖父母の引き上げまでに一年間もあったというのは始めて知りました。
やっぱり、五島列島でも鯛の浦の教会は有名ですものね。

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