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Chinto物語 その21 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.21)
約5年間、器械を足に付けていた敦子さんも小学4年生だったと思いますが、やっと外しても良い事になり、自分の両足を地面につけて歩く事が出来るようになりました。その時の気持ち、本人の何ともいえない嬉しい気持ち、想像するだけで、涙が出る程嬉しい気分になります。本人は尚更でしたでしょう。多少のいじめにはあったでしょうが、多くの皆さんの心からの親切には、子供ながら心に刻銘に感じ、感謝しましたね。それが敦子さんの人間形成に大いに役立っているのだと思います。辛かったと思いますが良く辛抱しましたよね。それだけに自分の足で歩けた時の感動は大きかったとおもいます。誰でもが経験することではありませんよね。二度とあってはいけませんが、いい経験をしたとプラス思考に出来る敦子さんはさすがと思います。親の子でした。
平針小学校をまず敦子さんが、翌年に孝君が無事卒業し、敦子さんは、南山中学女子部へ、翌年、孝君が、南山中学男子部へ難関を突破して合格し、入学することが出来ました。たしか孝君は、お姉ちゃんと別の方向を向いて通学するのがいやだと言って南山を受験することになったようでしたね。多分に姉コンプレックスの孝君でした。
当時、私は、南山の男子部にいて、副校長として、男子部の責任者でした。毎週月曜日には、中学と高校の合同朝礼があり、全校生に校長として正面に立って一言お話をするのですが、孝君はいつもその間中、下を向いていたという印象です。家に帰ってから今日の話は長過ぎるとイチャモンをつける孝君でした。これからのチント物語は、南山時代が続きそうですね。


■★まっと★のコメント
また、ちょっと訂正がありますね。★まっと★が中学に入学した当初は、父・徹は教務部長でした。中学に入って数年たってから副校長に就任しました。そのとき、小林氏が★まっと★の在学中に父親が副校長就任することを非常に懸念していました。多分、★まっと★の学校の中での環境の変化を心配してくださったのでしょう。なにせ、軟弱な少年でしたから、皆さんにご心配をおかけしてしまいました。
確かに姉・敦子に対するコンプレックスは非常に大きなものがありました。ただ、それ以外にもたくさんの理由で南山中学進学を決定したのも事実です。今では南山に進学してよかったと思っていますよ。ただ、父・徹が副校長に就任するまで、朝の合同朝礼で話が長すぎると、父・徹が受け持っていた3学年上の先輩やひとつ上の先輩たちが、結構うるさかったんですよ。
『お前のオヤジの話はながすぎる!!』って、先輩たちに★まっと★がしかられたりしてましたよ。3学年上の先輩たちは父の長い教員の歴史の中で、6年間持ち上がった、ただひとつの学年でしょう。父にとっても忘れられない学年のひとつなのではないでしょうか?右近さんにモンタさん、阿知波さんに浅井さん。浅井さんは今、★まっと★が勤務する学校で机を並べ、一緒にお仕事させていただいています。長い年月が過ぎ、父・徹の教え子さんたちと今、★まっと★自身がかかわりながら日々を生活しているんですね。人と人とのつながりを感じます。
そんなわけで、南山時代のお話は楽しいことになりそうですね。

■姉・敦子のコメント
私がコンピューターにはまるのは分かるけど、タクリン(姉・敦子は★まっと★をそう呼びます。)がはまるとはねぇ~。でも、お陰でこうして、家族のルーツを確かめ直す機会がやって来た。昔を知らないカレンちゃんや健さんも、話す機会のないことも知る事ができるし!
福山さんちに生まれ育った人でも始めて知る事もあるくらいだから・・・。でもでも、毎日のメールでたくさんの愛を感じます。
南山時代、我々の思春期だけにいろいろなエピソードが思い浮かびます。タクリン確かに、朝礼についてはよく文句いってましたよね!私には全く「ヒトゴト」でしたがぁ~。多分、私は父親が目の前にいる学校は選ばなかったんじゃないかな?


■★まっと★のコメント
あらら・・・・・選んだときには『父親が朝礼で話す。』なんてことは、まったく頭をかすめませんでしたよ。これは入学してから知った事実です。入学するときのメインのポイントは・・・『南山はカトリックの休日はお休みで、自分が公立中学に通ってたら、自分だけがカトリックの休日に登校しなくちゃならなくなるのが嫌だった。』・・・これがメインの理由ですよ!
しかしながら、★まっと★が入学した年から、カトリックの祝祭日は通常通りの授業に変わってしまいましたが、これには当てが外れた感じがしましたね。
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Chinto物語 その20 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.20)
またまた、前回のチント物語には、皆さんのご指摘のように、記憶違いやら、間違いがありましたので訂正致します。敦子さんも短期間、松葉杖をついていた事があるようですが、平成元年から二年間も松葉杖をついていたのは、車に引かれて、救急車で愛知医大に運ばれた、私でした。敦子さんは、五年もの間、骨に負担が掛からぬように、固定する器械をつけ、片方の足は、高下駄でしたよね。意地悪されて、隠されたのは、松葉杖ではなく、高下駄でしたね。お詫びして訂正申し上げます。ゴメンナサイ!それにしても敦子さんは、良く辛抱して我慢しましたね。オリコウさん。孝君もオリコウさんでしたね。敦子さんも孝君も、小学校は、星が丘と平針を経験したわけですが、どっちの小学校が楽しかったかの意見が二人で異なっているのもメールから知り得て、興味ある出来事の一つでした。その当時は、私は、毎晩、飲みに出かけて余り子供と顔を合わしていない時代でしたよね。それでも、休まず、毎日、朝早く、出勤してとても元気なお父さんという感じではなかったですか?
良く遊び、良く働いた時代でした。反対に、母さんは、最も精神的にも金銭的にも悲劇の主人公だったようですが?過去があるから現在があるのです。現在を最も大切に致しましょう。このようにして、子供達は、母さんの並々ならぬ子育てのお陰で、グレもせず、順調に育ち、二人共、一年違いで、南山中学に入ることになります。南山は、男子部、女子部に分かれていますから、別々の学校ですが、これからは、親子関係に更に、先生と生徒の関係が生じてきます。
南山の生徒だったお二人のことは、次回にしましょう。


■★まっと★のコメント
父さんも長い人生のなかで、いろいろと記憶違いや思い違いが生じるのも仕方ないでしょう。しかしながら、それだけいろんなことがあり、波乱万丈な人生だということではないでしょうか?また、その生きてきた道を、家族みんなで紐解いていくのも楽しいものです。何一つ悲しすぎて、つらすぎて立ち直れないことってなかったんですね。それぞれに自分の生きる方向性を見出して、父さんは夜の街へ出かけ、姉・敦子は高慢チキながらも生きるすべを発見し、★まっと★自身は年齢と共にちゃんと成長したように思います。母・澤美はどちらかというと★まっと★と同じで『主人公』になりたい性格ですよね。当時の主人公はなんと言っても姉・敦子でしたから、辛抱してる間にいろいろなことをちゃんと覚えてる・・・・。父・徹が言うように『母さんは、最も精神的にも金銭的にも悲劇の主人公だったようですが?過去があるから現在があるのです。現在を最も大切に致しましょう。』・・・・。この父さんのフレーズにもまぁ、父・徹らしい生き方を感じますね。学校教員の妻である母・澤美は父が修学旅行に出かける度に寂しい思いをしたことでしょう。福岡から出てきて、九州訛りの言葉も抜けない若い母、お味噌の色の違いに驚いたり、周りの皆さんに親切にされながらもやはり寂しい時代はあったはず。そんななか、覚えたのがタバコだったのでしょう。不在の父の吸殻からシケモクがはじまったとか・・・・。精神的には『おしん』状態だったかもしれません。『金にはこまらないように・・』と溜め込んだへそくり。それは時代は高度成長期だったこともあり、株式投資へ。大きなお金を作るようになっていきましたね。・・・・・そう、ほら、お母さんもちゃんと生きる道を見つけてるじゃないですか。そして、そんな時代があるから、自分も留学させてもらえたし、カレンにも出会えたし、結婚できたし、今の幸せがあるんですよ。父さんが言う『過去があるから現在がある。』というのも安易に理解できたりします。残念なのは、バブルはやっぱり泡でしかなかったようですが・・・。


■姉・敦子のコメント
小学校時代のお父さんのイメージ!!!!!朝早くは確かにでかけてましたよね!でも、元気なお父さんかどうかは、自分のお父さんしか知らないから分かんないなぁ~。家でのお父さんは、音楽を聴くか、テレビを見てるか、寝てるかだったような気がするので、元気というイメージではなかったです。でも、お父さんと一緒にいることは好きでした。
休日の朝、まだ我々が寝ている時から、大きな音でクラシックが流れ、起きるとステレオの前でよくお父さんが指揮をしてたのを覚えてます。
花電車(名古屋まつりには市電が飾られて市内を回っていました。)を追いかけてくれたり、コーヒー屋さんや外食に連れていってくれたり、サーカスやディスニー映画にも行きました。長島温泉には確かに連れていってもらってないけど、私にとっては、素敵なお父さんでしたけど・・・・今でも?!
父上は父上の、母上は母上の役割をちゃんとはたしたので、何とか子供もこのように育ったのでありましょう!最近、この年になってきて、人間の生き方とか考え方の根本って、やっぱり幼少時代の教育で養われるとつくづく思います。
今思い返せば、結構素敵な家族に囲まれ、回りの人々も親切で、ちゃんと教育もされ、恵まれた幼少時代だと思います。
父上も母上も子供がそう思ってるということは、がんばった甲斐があったというものではないでしょうか?????
・・・なんて・・・・ねぇ~!できは、まぁ~まぁ~かもしれないけど、まぁ~こんなもんでしょう!
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Chinto物語 その19 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.19)
前回の記述に重大な過ちがありましたので、先ず訂正をさせていただきます。敦子さんが、ぺルテスで手術とあるのは間違いでした。松葉杖をついていましたので、その姿が直ぐ浮かび、つい、手術とでてきましたが、手術はしておりません。足の骨に負担を掛けてはならないので、松葉杖の生活が4・5年あって、肉体的にも精神的にも辛い思いをしただろうと思ったのです。本人は、何も辛い思いはしなかったと申しておりますが、クラスメイトからは、いじめられたり、松葉杖を隠されたりしていましたから、その点では,辛かっただろうと思います。それを否定するのも敦子さんらしい負けず嫌いの前向きの姿勢のようでほっとします。勿論、入院中は、皆さんにやさしくしていただき、なんでも、聞いてもらえ、欲しいものは手に入ったでしょうが、痛くないといっても、果たして完全に治るのか?とか立派に歩けるようになるのか?という不安は否定できなかったと思います。その間、孝君も苦労しましたよね。幼稚園から帰ってきても、いえの中には誰もいないし、お隣の小島さんにお世話になり、親切にしていただきましたよね。
福山家にとっては、正に試練の時代でした。何故か、敦子さんの松葉杖の姿が頭の中に描かれていてなかなか消えようとしませんね。それに耐え切れず、その頃から毎晩、飲み歩いたのかな?次からは、飲兵衛おやじの話に入るのかなあ?


■姉・敦子のコメント
お父さん、今度は正しいです。松葉杖は使った記憶があります。でも、長くはなかったと思う!おそらく、ペルテスが発病し、健康だった娘が最初に松葉杖姿になったのが、とても父上の印象に深く残ったのでしょう。それだけ、最初の姿は、ショックを与えたのではないでしょうか?ご心配をかけたものです。・・・お陰で今は元気!ハイ!神に、そして両親に、タクリンに、感謝しております。
それから、立派に歩けるようになるか?とか心配するには幼すぎ、そんな事はあまり考えなかったような気がします。
本当に強がりではなく、つらい時代というより、現実として結構、すんなり認めてました。子供だったから柔軟だったんじゃないかなぁ~?
どちらかと言えば、タクリンとは正反対に星が丘の方が印象悪いかな?1年担任の石田先生はよかったけど、2年の担任は明らかに偏見で見てたし、同級生も良い子ぶりっこした陰険な奴がいた記憶があります。その頃すでに、『あの人はああいう人だから・・・』と腹を立てず諦める技を取得したのかもしれません!
平針の子は、ストレートにやり返せばよかったので、楽でした。それは、きっと立ち向かえば何でも解決できるという教訓を教えられたと思います。きっと、私自信の人間形成には影響を及ぼした事は認めますが、回りが思うような試練ではなく、浪人時代の方がよっぽど精神的には試練だったように思います。
でも、まぁ~そう思えるのも、本当にたくさんの人に親切にされ、良くしてもらったお陰でしょう!本当に感謝しております。
さて、母上!「死にたくない」発言!しっかり覚えております。でも、今思えば、幸せだったから、死にたくなかったのよ!自分の存在が無くなるという事を理解しようとしていた事を覚えてます。そして、それは考えてはいけないことだと気づいた訳です。あの頃、よく見てた、『虎が階段から襲ってくる夢』も覚えてます。なんで虎だったんだろう?????
『私はスカートははかないから、ズボンにして。』発言については、よそのオバサンがどうしたの?と聞くたびに同じ説明するのが面倒だったのを覚えてます。面倒だから隠そうと思っただけよ!向こうは、かわいそうに思ってくれて聞くのだろうけど、
私はそんなもの必要としてはいなかったから面倒だった。まぁ~ある意味で、可愛くない子供だったわけネ!
タクリンも私が高慢チキとか書いとったのぉ~。。。。しっかり見ちょるぞぉ~まぁ~半分はあたってるかぁ~


■★まっと★のコメント
家族一人一人が回想できるチャンスを得ました。すばらしいことだと思うし、新しい発見も多々あります。家族のメンバーがそのときに何を感じ、何をしようとしていたか、45年もたってから思い出して、それを幸福につなげることができるって本当にすばらしいことですよね。本当に『名古屋福山新宅』の半世紀にわたる歴史が詳細に思い出されます。

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Chinto物語 その18 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.18)
昭和33年、孝君が生まれて、敦子さんとで,二人の子の親だという自覚と責任がどっしり肩に掛かってきた思いでした。よく働きました。二人の子どもは1年と10ヵ月の年の差がありますが、下の孝君が二月の早生まれなので、学年は1年違いの年子と言う訳です。スペイン系のカトリック修道院の経営する聖マリヤ幼稚園に1年違いで入園し、シスターにとても可愛がられながら元気に通園してました。星が丘から本山まで、毎日タクシーで通園という、どこかのお嬢様・お坊ちゃまのようでしたね。 ところが、敦子さんが年長組になったある日、遠足に行って帰ってきてから足が痛いと言うのです。早速、はちや整形外科病院で診察してもらったら、それまでに聞いた事もない,珍らしいぺルテスという骨の病気で、即,入院ということになりました。足の骨が上から押しつぶされたようになっている病気です。そういえば、敦子さんはお転婆娘で、アパートの前の遊園地の滑り台の高いとこから飛び降りていた子どもでしたよね。ハチヤ整形外科に入院して足の手術を受け、それから数年、敦子さんの肉体的にも精神的にも苦痛な時代のはじまりです。親が、敦子さんの方ばかりに関わらねばならなかった為。孝君にとっても気の毒な、福山家にとっては,予期せぬ昭和30年代の大事件でした。


■姉・敦子のコメント
多少訂正個所があります。その1.私はぺルテスで手術してませんよぉ~。(確かに★まっと★もそうおもいました。)そうです。母上は女の子だし、メスを入れない方を選択したのです。その2.ペルテスは敦子さん(私)にとって肉体的にも精神的にも苦痛な時代のはじまり・・・ではなかった。それは、母上とタクリン(姉・敦子はそう呼ぶのです。)の肉体的にも精神的にも苦痛な時代のはじまり?タクリン(姉夫婦は★まっと★をそう呼びます)のエッセイにもありましたがネ・・・・・父上にとっては?????
私にとっては、あまり悪い印象はありません。苦痛の時代なんて思った事もありません。それは、母&回りの人々のお陰かもしれないと思っていますが?
私にとって足が悪い事は可愛そうな事ではなかったのです。まず、第一に痛みがあったわけでもなく。足が無いわけでもない。でも、人はかわいそうと思い、チヤホヤしてくれるし、気を使ってくれる。言う事は聞いて貰えて、好きなものを食べさせてくれる。子供にとってこんな幸せなことはありません。日の当たる明るい病室で、わがまま放題言っていればいい生活!まるで女王様じゃあありませんか?????そんな中で、いやな性格にならなかった?(自分ではそう思ってる)のは、母上のお陰だと思ってます。ちゃんと教育してたんでしょう?!だから、タクリンの苦痛時代の話には心が痛みます。その時代のそれぞれのおかれた立場と心の状態のギャップを感じます。そうです。タクリンのいうかわいそうだけど強い姉?
実は、かわいそうじゃないから、強かったのかも?????

エッセイ『姉・敦子の入院』(幼少期)

■★まっと★のコメント
ふ~~~~む。ちょっとそれなりにショックかも・・・時は40年以上も流れてしまったけど、自分が感じていたことと姉・敦子が実際に感じていたこととはかなりのギャップがあったわけですね。それはそれでいいことかもしれないけど、それなりに自分の人生が空回りしてたことを意味することにもなりますね。悔しいなどとは思わないけど、逆に今となっては安心しています。そうですね、母・澤美の教えってどこかで生かされてる部分もあるのね。我々姉弟もどこか和田さんなのでしょうか・・?
『かわいそうじゃなかったから、強かった。』・・・・って事は高慢チキ??
そうそう、父さんはな~~んにも覚えていらっしゃらないんだなぁって思います。実際に姉・敦子が手術した記憶はまったくないですから。それに、手術か時間をかけての治療という選択においては福山家では治療を選ぶ家系のように思いますが、いかがでしょう?ただ、誰かさんの交通事故のような場合は即、手術、、、、、といきたいところでしたが、内臓疾患や血圧の関係で今度は手術ができなかった・・・こんなこともありましたよね・・・・・。その誰かさんとは当然、父・徹ですなぁ。


■母・澤美のコメント
今池の下駄やさんの御爺さんが補助具の高さに合う下駄を片足文だけでも気持ちよく作って下さいました。京都に旅行した時も補助具が切れてしまい、困って靴屋さんに駆け込んだのですが、店主さんの御爺さんが修理してくださいました。たくさんおみなさんに助けられたと思っています。
小学校では、いろいろいたずらされ、下駄をかくされても泣かずに頑張って取り返す逞しい敦子さんでした。5年間本当に長い月日を明るく過ごしてくれました。
一度だけ、夜になると『私は死にたくない。』と言って三日間も泣かれた時には、どう説明すれば良いか随分悩みました。補助具をつけていた時、『私はスカートははかないから、ズボンにして。』と言われ、どうしてかと尋ねると、ほかの人が色々聞くので隠した方が便利という結論でした。この頃から敦子さんはたくましく育っていました。

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Chinto物語 その17 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.17)
どうも、コーヒーの時はコーヒーに1途に、お酒の時はお酒に1途、ビールの時はビールに1途になるのが私の習性なのかなあと思ったりしていますが、一つの事に集中するとそのこと意外は見えていない。次に、集中できるものが出来ると、新しいその物に今度は長くこだわる。こういう性格の持ち主かなあと自己分析してみたりしています。今、弓に熱中できているのもそのせいかもね。人間は、誰しも長所と短所を持っているからね。一つの事に集中して他が見えないのは、私の長所であり、同時に短所でもあるのかなあ?と思ったりしています。敦子さんや孝君が幼稚園に通っていた頃は、私は30台の頃で、今の敦子さんや孝君の年齢より、ずーと若い時ですからねえ。考えてみると本当に寝る暇もない程の忙しさでしたね。また、良く働いたものだと思います。飲む為に働いたのかな? 母さんは、多分、当時の事を、暗黒時代と申すでしょうね。人生いろいろ。そういう時があっての今が存在する。それが我が家の歴史なのです。その歴史を築き挙げたのは家族です。昭和30年(1955年)5月5日、家族(ふくやま)の始まりです。二人から三人になり四人になり、五人になり、そして現在、六人でこの家族は成り立つています。しかも、3組の夫婦からなり、各夫婦が幸福な毎日を営み、家族全体が幸せを実感として味わっている。最高ですよね。続く事を祈っています.神に感謝!次回は、子どもの幼稚園時代の物語にします。


■★まっと★のコメント
父さんがコーヒーが好きだったことは知っています。でも、お酒はビールだと思っていました。焼酎や日本酒は飲まないものだと思ってましたよ。まぁ、簡単に言うと凝り性ってことでしょうか?目新しいものに飛びついて、次に気になるものが出現するまではそのことのみを考えているということになるのかな?まぁ、いいじゃないですか。少なくとも奥さんが人生の途中で変わったわけでもなく、もうすぐ金婚式を迎える父さんと母さんの人生。すばらしいですよ。
家族は二人から始まって今は6人。続くことを願っています・・・って、父さんが一番がんばらなくちゃいかんじゃん。一番のお年寄りなんだから。


■母・澤美のコメント
ヒヤチント物語を読みながらいろいろ思い出します。まだ、お父さんと結婚する前の話です。私が子供のころのお話。博多の母(★まっと★の祖母)は私が日本舞踊が大好きでお稽古に行かせてくれたのは良かったのですが、まわりの皆さんがうまいと言って、誉めて下さるようになったらやめさせられ悔しい思いをしました。その理由は『高慢な人間なってはどうにもならない。』と言うことだったようです。うぬぼれることをさせないために、これだけの理由で日本舞踊をやめさせられたのは悲しく思いました。母にとっては躾教育、家庭教育の一環だったようです。
次に中学に入学して卓球を始めると、商売屋は人手が要るのでクラブ活動で帰宅が遅くなる事は、全く面白くない母親でした。そのかわりではないけど、学校の成績に関してはな何もいいませんでした。勉強は自分のためにするものであり、人と競争する事ではないという考え方の持ち主で、クラスで上位の成績をとっても関心を示してもらえず悲しい思いがありました。このような環境で子ども時代を生活してきました。ヒヤチント物語のおかげで自分自身の子供時代も振り返ることができました。

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このエッセイは全て2003年ごろのファミリーメーリングリストでのメールのやり取りですので、表現上、若干の時差が生じております。両親はもうすでに金婚式を無事に迎えています。
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Chinto物語 その16 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.16)
昭和35年、車に乗り始めた頃は、車も余り走っておらず、運転も非常に楽でした。現在のように、アルコールが少しでも入ると運転が出来ないという法律も無く、全く自由でした。その頃から、私はコーヒー党からアルコール党に変身しだしたように思います。当時は私も30代の若さでしたので、自分でもびっくりするほどスムースにアルコールがいくらでも入りました。焼酎や日本酒が多かったようです。勿論,車で飲みに行ってました。いろんな事がありました。飲み屋から帰ろうと外に出たら、車が無かったり、酔っ払いに因縁をつけられて殴られ,家に帰って一晩中、氷で冷やしたり(翌日学校に出勤するので)母さんにはいろいろご迷惑をお掛けしました。今更謝っても時期はずれですねえ。偏頭痛の激しい母さんでした。その原因は全て私にありました。謝っても手遅れですが、申し訳ございませんでした。子どもには、仕事で帰りが遅いんだと母さんから聞かされていたでしょうが、実はこんな事情でした。ある時、お酒を飲みすぎて悪酔いし、苦しんで、それ以後はお酒を止めてビールに変わり、今に至っております。子どもとは余り顔を合わす機会の無かった時代でした。夜は遅く帰るのでもう寝ているし、朝は寝てる時にもう出勤だし、顔を合わす暇もないほど忙しい時期でしたね。この続きは、また明日にしましょう。


■姉・敦子のコメント
ちょっと、ビックリ・・・お父さんがお母さんに謝ってる!!!言葉では、考えられない事です。お母さんは、このことをどんな気持ちで読むのかなぁ~???お父さんの素直な気持ちがとってもすごい!!!
昔は、焼酎や日本酒も飲んでいたんだぁ~。殴られて帰ってきた時の事、なんとなく覚えてます。朝だっけ???車が無くなったのは厄年ですよね!でも、あの頃のお父さんはなんであんなに飲みに行きたかったのでしょうネ?よく「高いお酒しか飲まない」と言って、外で飲むのが習慣でした。子供の頃、家で飲んでるお父さんの記憶はありませんから・・・・。お外で飲むことが、人生の楽しみだったのかなぁ~???お仲間と飲むのが楽しかったのは、分かるけど・・・・それだけはまった訳?!ちょっと興味があります。自分達が年をとって、お父さんのその年代を理解できる年になったからよけいにね!!!時代は違うけど・・・・・・


■★まっと★のコメント
姉・敦子も言っているように、やっぱり、父・徹の懺悔には驚きです。でも、そういう風に今の年齢になって言える父はかっこいいとも思います。ニッポン男児・九州男児の父がこうして昔のお話を振り返り、そして、そのなかで、反省もできる部分があるのだとしたら、それっていまだに成長してるって言うことでしょ?すばらしいことではないですか。また、父さんが焼酎や日本酒を飲んでる姿なんて、まったく想像できません。ちょっと不思議な感じすらします。でも、今は元気にたしなむビールもおいしいのではないでしょうか?いいですよね。元気でいてくれることは子供たちにとってとってもうれしいことですから。

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Chinto物語 その15 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.15)
孝君が生まれた昭和33年頃の星が丘は、環境は抜群に良い所でした。東山から星が丘までは,まず空気が一味違うという感じで、おいしいと思いました。ただ、交通が不便で、東山から先は専ら歩きでした、丁度その頃、高木さん(旧姓熊崎)が南山の女子部の生徒でした。そのお兄さんの熊崎さんが自動車学校の先生をしていらっしゃるというので、その学校に入ろうかと思っていたら、個人的に教えて貰えることになって(お兄さんも男子部のO,B)都合の良い時間に運転を習い、試験だけを受けに行って合格。昭和35年1月13日運転免許証を獲得する事ができました。当時は、まだ車を運転する人は少なく、車も余り走っていない時代の話です。でも免許証をとると次に欲しくなる物は当然、車。何処からか車が降って来ました。トヨペットスーパーというお尻の大きい自動車でした。勿論、中古車でしたが嬉しい悲鳴を挙げて喜びました。丸一はトラックだけど、車は専門ですからねえ。小林のおじいちゃんの一声、「先生のとこへ、これもって走れ!」というわけで最初の車は我が家に到着。


■★まっと★のコメント
人間、望めば叶うことってあるんですね。当時、中古車であろうが、車を手に入れることはかなり大変だったのではないでしょうか?でも、小林のおじいちゃんは太っ腹ですね。もう、小さいころから車がある生活でした。しかし、父・徹の車に乗せてもらえるのは日曜日だけでしたね。週日はほとんど、子供たちが寝てからしかご帰還なさらなかったように記憶していますが・・・・・。


■姉・敦子のコメント
ヒヤチント物語も益々懐かしいお話になってきました。私達には、忘れていた懐かしいお話でも健さん(義兄・健二)には驚きの話もあるようです。丸一から我家の始めての車が降って来た話とか・・・・・、へぇ~と言いながらも、なるほどと納得してるような・・・・・。我家もお世話になっているので、納得できるのでしょう!!!!

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Chinto物語 その14 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.14)
昭和33年2月14日、星が丘の病院で、福山家の長男坊、孝が誕生しました。敦子さんは、博多のおじいちゃん、おばあちゃんに預けられましたョねえ。孝君は、生まれた時から大きかったよね。予定日より生まれたのが遅れたくらいですから、随分大きな赤ちゃん誕生でしたね。当時の私は、コーヒー党でして、学校が終わると、堀、横尾、小高先生と四人で,南山学園のある杁中からバスで栄まで行き喫茶店の梯子をして星が丘まで帰っていました。四人で当時の南山のあり方を真剣に話合ったという印象が強く残っています。四人の中で一番若かった小高さんが一番早く亡くなられて、何でも順番にはいかないものですねえ。当時は専らコーヒー党で、アルコールには縁がなかったようです。私を除く三人はアルコールの全然駄目な人でした。煙草だけは当時から大量に吸っていました。専ら「憩い」という煙草(今はもう無い)でした。ある時、両切りのピースをすったらとてもおいしくて気に入ってそれ以来、一日百本のペースの始まりと相成りました。当時、両切りのピースが一番値段が高かったようです、給料が安いのに、と誰かさんは思って心の中で、大声で叫んでいたでしょうね。でも、当時は、家庭教師のアルバイトも必死にやっていましたよ。そういう我が家の環境の時代に、誕生したのが孝お坊ちゃまでありました。


■★まっと★のコメント
生まれたときから大きな赤ちゃんでしたかぁ・・・。今でも大きな赤ちゃんのようなものですが、確か、★まっと★の出産予定日には母・澤美は日展を鑑賞しに出かけていたとか?大きなおなかで絵画の鑑賞、しかも出産予定日に。。。大胆な母です。まぁ、お腹の中でいつ出てこようかと悩んでいたわけでもないと思いますが、その日に出てこなくてよかったです。父さんのタバコのグレードはこのころにあがったんですね。ピースの煙の中で育った★まっと★です。父・徹もけっしてタバコだけはやめないだろうと信じていましたが、後にお話に出てくるとは思いますが、癌の手術と共にやめてしまいましたね。あれだけタバコが大好きだった父・徹がキッパリやめてしまったことには家族全員驚いています。
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Chinto物語 その13 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.13)
昭和31年4月27日、敦子さんが誕生し、小さな赤ん坊でしたが、とても元気な子でした。カトリックの暦で、その日の聖女マリヤゴレッティと言う霊名をいただきました。敦子さんが生まれた時は、桜山に住んでいましたので、聖霊病院でシスター達にも可愛がられ幼児洗礼を受けました。孝君の生まれた時は、星が丘に住んでいましたので、聖霊ではなく、忘れましたが、星が丘にあったナントカという名の個人病院でしたよねえ。孝君は、昭和33年2月14日に誕生致しました。カトリックの暦で,その日の聖人がマチアだったので、霊名がマチアになりました。2月14日はバレンタインなのに、どうして霊名がバレンタインでないのか?私も不思議に思います。カトリックの暦に聖バレンタインの名が載ってなかったのかなあ?七不思議のなかの一つですねえ。 孝君がこの世にご誕生頃からのことは、次からのお楽しみということにしておきましょう。


■★まっと★のコメント
やっと★まっと★が誕生しますね。うれしい限りです。姉貴があまりにも簡単に生まれたので母・澤美は出産とはかなり楽珍なものだと思ったようです。しかしながら、第二子は★まっと★だったのです。まぁ、大変だったらしいですよ!もう、出産はこりごりだと感じたそうです。とは言うものの・・・母は★まっと★の予定日に日展を鑑賞しに出かけたとの事・・かなり余裕があったのではないでしょうか??しかし、その日から2週間も★まっと★は母・澤美のおなかの中にとどまりつつ、成長しちゃったんですよね。そう、★まっと★の予定日は2月1日、そして、生まれたのは14日ですからね。


■母・澤美のコメント
チント物語読みながらふと思い出しました。3年つきあいながら彼と平行線だった事を。私は日蓮宗で朝からお経のあげられる家に育ち、すべて神、仏、通告表もすべて仏様。帰宅して『ただいま』も仏様でした。生活の全てが,仏様から始まるという家庭でした。母(★まっと★の祖母)は特に熱心でした。朝早く起きて,東公園迄歩いて日蓮さんにおまいりしてました。カトリックの勉強をするようになって、いろいろと疑問がでてきました。宗教というものは、自分の心の問題だと主張する私、彼(父・徹)はカトリックが全てと主張するのです。1年ぐらい論争しました。結果は結婚するという事であり、改宗するという事でした。母(★まっと★の祖母)は納得できないことでした。子供たちはカトリック信者として幼児洗礼だけ受けているわけです。彼(父・徹)もある時には、修道士になりたいと思った時があったようで、やはりカトリックが全てなのでしょう。『信仰』って難しい問題ですね。


■姉・敦子のコメント
お父さんからは、我々の洗礼についてのお話が聞けました。そして、母上からは、宗教について・・・・『そんな風に思っていたんだぁ~。』とよく話をしてたはずなのに思い出しました。論争の結果は父さんの勝ち?まぁ~おばあちゃんは、納得してなかったのね!でも、おめかしして教会の結婚式に参列してたよねぇ~。
確かに、幼児洗礼だけの理由は聞かされていました。将来、自分で選べとね!!!でも、それは不良信者への道になっただけかな?結局、小さい時からカトリックしか知らず、幼稚園も中学、高校もカトリック、両親もカトリック(子供はそう思っていた。)そうなれば、選ぶもなにも、信じる神様は、イエスキリストしか無かった訳で、不良信者だけど、心は根っからのカトリック信者のつもり!不良だから、自分の頭の中で作り上げたカトリック界を信じてる部分もありますがぁ~。つまり、いいかげんなわけで・・・・・。でも、感謝と苦しい時の神頼みしてる神様はカトリックよ!それが、環境、または洗脳というもんなんでしょう!でも、私はそういう神様を教えてくれた両親に感謝していますヨ。やっぱ、信じるものはあった方が、心の支えになるもの!
中学の時ぐらいかなぁ~???ちゃんと洗礼を受けてる友人が羨ましかった時があったのを覚えています。つまり、自分はちゃんとした信者ではないのがつまらなかった。友人とのグレードの差みたいのを感じてサ!負けず嫌いだから。。。でも、だからと言って、子供だったから自分で何とかする程の意思も無かったという訳!
結婚して、無教徒の旦那様ともちゃんと調和できる程、いいかげんな不良さは、父親を見てこれが福山さんちのカトリックスタイルと思ってる部分もあるのかな?????とは言っても、ご先祖様を大事にする気持ちとか、おばあちゃん信仰をお母さんを通して教育された気がします。ちゃんと、おばあちゃんの信仰も知らないうちに自分の中に生きてると思います。おばあちゃんはやっぱスゴイというイメージ母上から教えられたよ。でも、本当に博多のおばあちゃんもおじいちゃんも孫にはやさしかったから、とにかく大好きだった。それだけははっきり覚えています。

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Chinto物語 その12 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.12)
昭和31年の中学入試の前でした。南山大学の先生が我が家に見えて、今度の入試を大切な知り合のご息子が受験するので推薦を頼むと言う話でした。私は南山に就職してから二年目だったので話の内容を余り理解出来なかったのですが、当時、南山中学・高等学校には、入試において、推薦制度というものがあって、教員は一名の推薦枠を持っていたのです。推薦すれば,必ず合格するが入学すると、その生徒が高校を卒業するまで責任をもつことになっていて、教員は、どの生徒は、どの先生が推薦したかは全てあからさまになっていました。新米の私は言われるがまま一人の生徒を推薦しました。それが小林くんだったというわけです。普通の生徒であれば、問題なく高校も卒業していくので問題はないのですが、ご存知のような方ですから卒業まではビクビクものでした。担任の野田先生の家に預けたりして、どうにか無事、高校を卒業して、推薦で南山大学に進学が決まり、ホットしました。小林君のお父さんも必死で、育友会(P.T,A)の会長までして息子の為に努力してました。推薦制度はその後間もなく廃止になりましたが、唯一推薦したのが小林君だったのです。それ以来のお付き合いで、恩義を感じておられるのか、今でも良くして下さいます。特に、おじいちゃん(小林君の父)が、先生!先生!と言っていたのが、とても印象に残っています。問題児だった者ほどあとで特に印象に残るものですねえ。今でも小林社長は、先生!先生!と言って私達を大事にしてくれます。お母さん(サワミ)のことをおかあちゃん!おかあちゃん!といまだに呼んでいます。
今日は小林君とのかかわりについてでした。次からは二人の子どもさんの幼少時に戻ります。


■★まっと★のコメント
丸一の社長のお話ですね。後に姉・敦子の結婚では媒酌人をお願いしたり、★まっと★の留学中にも本当にお世話になりました。小林社長のお父様には★まっと★自身も本当にかわいがっていただきました。社長にも我々の結婚の時にはカレンの父親代わりとして参列していただきましたね。北海道にもお出かけになるようですが、★まっと★自身は最近ご無沙汰をして大変失礼してしまっています。一度、ご挨拶にお伺いしなくては。名古屋同士で近いだけに、いつでもお邪魔できるのではないかとついつい失礼ばかりで申し訳なく思っています。
さて、南山に推薦制度があったことは知りませんでした。また、教員にとっても責任を持って卒業するまで・・・というのはかなりきついお話ですね。我々が南山学園に入学した当時ではもうその制度はありませんでした。いろいろな生徒さんに出会うのが教員という仕事です。父・徹も何十年と教員をしていたのですから、関わった教え子さんたちの数は膨大でしょう。★まっと★自身でさえまだ、教員生活25年に満たないにもかかわらず、相当数の生徒さんたちを社会に、そして次の高等教育(大学など)におくりだしていますからね。人生の先輩として、そして、教員という仕事の先輩として父・徹の存在は尊敬に値しますね。


■姉・敦子のコメント
今日は、小林社長の登場ですね!お父さんも色々な生徒さんたちと巡り会えたわけだけど、その中でも、小林さんは特別な生徒さんだったのですね!我々もお兄ちゃんと呼び、未だにお世話になっています。人と人との係わり合いってすごいと思います。皆、助けたり、助けられたり・・・・・。そうやってそれぞれの人生にいっぱい色づけしてすばらしくしていくのでしょう!!!・・・・・んんん、カッコイイ!

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