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Chinto物語 その31 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.31)
平成元年の事でした。放課後、男子部と女子部の先生でソフトボールの試合をやって、その打ち上げ会をいりなかで一杯やって須田さんとタクシーで帰ろうとして車にはねられて、救急車で病院にはこばれました。何故かはねられたのは私一人で須田さんは無事でした。運ばれた病院が愛知医大だったのです。意識不明のまま入院。意識を取り戻してからも、いろいろ検査があって、手術できる状態になるまで何日か経ち,整形外科で右足の手術を受けました。骨がボロボロになっていて、それを金属で支えるという大手術だったようです。幸いな事に関節の方は大丈夫だったようです。それから松葉杖の生活の始まりです。起きれるようになってから、左足(良い方の足)が弱るといけないからというので、松葉杖を突きながら病院中を外も中も毎日歩き回りました。やっと、中に金属がはいつたまま,松葉杖姿で退院。2年間この姿で歩き続けました。デパートにも行きました。旅行もしました。そして2年後、足の中に入っている金属を抜くための手術を受けるための入院。開いて中から出てきた金属の量にびっくりしました。よくもこんなに沢山の金属を足の中に入れたまま過ごしたものだなあとおもいました。平成3年やっと松葉杖から解放されました。それ以来、愛知医大には、内科の診察と治療に月に一回通っています。野田先生(内科医)が愛知医大にいらっしゃる事が解り、主治医を変えてもらいました。野田先生は、昭和35年の南山の卒業生です。名古屋大学の医学部を経て、今は愛知医大の教授で、診察に行くと、今でも、当時の生物の授業の話が出ます。私の黒板の字や絵がとても綺麗だったと言う印象が強いそうです。こうして毎月一回内科に診察に通っていて、野田先生が、胃のレントゲンを見ながら,ガンと思われる個所を見つけられたのです。素人の私が見ても全然解らないものでした。全く初期のものだと思うので、今手術すれは、絶対大丈夫だと思いますと言われ、入院しました。平成5年のことでした。無事,手術も終わりそれから10年経ち,先生が言われるようにもう大丈夫のようです。そして、平成7年、今度は、前立腺肥大ということで、入院し、3分の2切りました。それ以後は,入院も無く元気に弓を毎日引いています。今日は,入院の話になってしまいました。弓の話は次回になります。


■★まっと★のコメント
癌の手術と前立腺の手術・・・ちょっとお話がごちゃごちゃになってません??3分の2を切除したのは胃ガンのほうじゃないかなぁ~~~って思うんですが。前立腺の手術は平成天皇と同じですね。これは年齢を重ねた男性の殆どが発生してしまうので仕方ないですよね。そのあたり、今一度、母・澤美に確認していただきたいところですね。
また、父・徹の入院中にカレンが本当によく動いてくれていました。当時はカレンも南山国際中学高等学校に勤務していて毎日病院に通ってくれました。すばらしいお嫁さんです。また、平成に入ってからは父が交通事故、そして、その後、胃癌が発覚したとき、母の喉にポリープができ、摘出手術が予定されました。そんなおり、父の入院数日前、福岡の伯父が亡くなって、父は急遽福岡へ飛ぶことになり、母はお葬式当日が手術、名古屋福山家は大忙しでした。でも、カレンが本当によく動いてくれました。すばらしいお嫁さんです。本当に平成7年まではなんだか福山家も大変でしたね。その後、★まっと★自身が急性膵炎、★まっと★が退院して翌月にカレンも看病疲れからか喘息の発作で入院、★まっと★がちょうど厄年でした。その後、★まっと★が扁桃腺摘出などの手術を受けていますから、平成になってから10年以上は福山家は病院と仲良しということになりますね。
現在ではみんな、健康に生活をさせていただいているのですから、神様に感謝しなくてはいけませんね。


■母・澤美のコメント
本当にいろいろお世話にまりました。胃がんの時は敦子さん、前立腺の時はカレンさん、白内障の時は孝さん、いつも誰かいてくれてこころが癒されました。有難う御座いました。
前立腺の時は凄い出血で、どうなることかカレンさんととまどいました。カレンさんが病院にきてくれるときに道が一方通行で行き止まりとか大変でした。
皆さん仕事でしたので大変迷惑かけましたが、やはり一番大変だったのはお父さんだと思います。お父さんの病院での努力。リハビリは並大抵ではありませんでした。頑張ったと思います。骨折のときは、特にリハビリが必要なので、午前は病院の先生、夕方にまたという1日2回のリハビリを続けました。努力という言葉が好きな人ですが、実行もしたわけです。
みなさん、ありがとう。今は後遺症も無く,元気に、また努力しています。


■姉・敦子のコメント
ヒヤチント物語も父上の入院までいっちゃいましたね!でもさぁ~、お父さんも入院患者向きの性格でよかったですよねぇ~。決めたことはきっちりする性格だから、リハビリもきっちり!精神的に弱いんだか、強いんだか?????
でも、まぁ~兎に角、今は皆本当に元気でよかったです。

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Chinto物語 その30 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.30)
昭和29年(1954年)4月に南山に就職してから、昭和62年(1987年)3月停年を迎えるまで、長い年月でした。良く働いたものだなあと自分でも思います。満足感溢れる教員生活でした、担任をしたのは、3つの学年だけでしたが,5年間や6年間持ち上がる事も出来たし、最後まで、授業は持ち続けたし、満足しています。
昭和48年4月(1973年)に教頭、昭和50年9月には神父様以外では初めてという副校長、そして、昭和52年9月から南山学園の理事も勤める事ができました。定年後は,理事・学監として平成3年3月までお勤めして退職しました。楽しく、充実した時代でした。そして南山で最後は女子部で終わりました。授業はそれまでにも受け持った事はありますが、正式に最高責任者として籍を置くのは初めてでした。毎週、全校生徒が集まる朝礼で、校長訓話と言うのがありましたよね。女子部の特徴の一つにベレー帽がありましたよね。それをかぶらない生徒が多くなったというので、朝礼の訓話でかぶるようにと話したら女子部の生徒の誰かが、一枚のポスターを作りました。モデルは私でした。上半身の似顔絵でしたが、シャツを着せられていました。なんと、ベレー帽が一ぱい模様として入ったシャツを着せられていました。当時の女子部の生徒はこのようにウィットにとんだ生徒が多かったようにおもいます。学校祭のポスターにも似顔絵がなったり、女子部でも、なかなか人気があったようです。授業だけは最後まで、ちゃんと持ちつづけることができました。満足です。授業があっての教師ですからね。退職したのはいいけれど、さてその翌日からどうしたのでしょうか?明日を見てね!


■★まっと★のコメント
はいはい、覚えてますよ!!素敵なポスターでしたよね。そんなに口うるさくベレー帽をかぶるようにいったのですか?当時は南山の女子部にも名物先生がいっぱいいらっしゃいましたよね。名和先生や徳島先生、千葉先生に橋倉先生。須田先生、小高先生、伊藤肇ブラザー。残念ながら他界された先生もおられますが、本当に女子部は優秀な生徒たちで、なおかつユニークだったのではないでしょうか?最近の女子部の生徒さんにはお会いする機会もないのでよくはわかりませんが、父・徹もすばらしい同僚に恵まれていたんですよね。ひとつの時代だったんですね。
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Chinto物語 その29 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.29)
南山に、帰国子女の教育を行う、国際部が出来た事は、本当に良かったと思います。私の考えでは、南山には、男子部、女子部というしっかりとした母体があるから国際部が成り立つと思うのです。ところが、最近、南山中・高の国際部が、国際中・高等学校として独立したと聞きました。何を考えているのでしょうかね?何故、国際部では駄目なのでしょうか。 女子部さえも南山女子高等学校として独立せず、女子部のままずっときて,今は世間から男子部以上に評価されているのは、しっかりした母体があったからですよね。そのことをないがしろにして、国際部を独立させるなんて,とんでもない話だと怒りを感じます。
誰の仕業かはしりませんが、思い上がりも甚だしい。前途、多難 間違いなし。私が、国際部を担当していた頃は、須田さん、伊藤さん、浅野さんと言う相談できる相棒がいましたが、生みの苦しみも知らず、ただその上に乗っかっていてはお先が懸念されます。静観しましょう。私の南山での最後のお仕事は、女子部でした。明日はその頃のお話になりそうです。


■★まっと★のコメント
父・徹の南山への思いがひしひしと感じられます。独立した学校として評価されるためには歴史やそれまでの積み重ねが基礎になってくるわけですよね。それがないがしろにされ、自尊心が大きくなるのもまた、人間の性とでも言いましょうか。学校が大きくなると、つい大切なことを忘れてしまうのですね。実際に父・徹は2回の定年退職を経験していると記憶しています。そうですね。一回目の定年退職で、実際の父の南山での存在そのものが修了したことになるのでしょうか?南山学園のここまでの歴史の中で名物先生とされた方々が、この世を去るという悲しい出来事が、ここ数年続いています。そんな南山を育てた世代は忘れ去られていくのでしょうね。
ほんの少し悲しい気がしますが、時代の移り変わりということになるのでしょう。
団塊の世代から壮年期に入られる、父の教え子であられる諸先輩がたの脳裏には教師・福山徹の姿がしっかりと刻まれていると思います。そして、息子である自分自身の心の中に、父・徹の存在と教師・福山徹の存在はかけ離れることなく重要な年輪として活力の源になっていると思います。退官してからの父の人間らしさに日々、驚かされることも多くありますが、南山での教師・福山徹にしても、南山の歴史にしても、現在の親父の言動一つ一つにしても、それらすべてが父・徹の存在感であり、実績であり、証なのでしょうね。

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Chinto物語 その28 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.28)
海外勤務から帰国して、当時、一番困ったことが,子供の学校のことでした。所謂、帰国子女教育の問題でした、日本人学校に通っていた子供は、帰国して日本の学校に入っても、まだ、それほど問題は無いにしても、長く現地校に在学していた子供の日本での受け入れは何の対策もなく、日本の学校に適応できず、子供本人は本当に悩んだと思います。
トヨタ自動車には海外に派遣されていた社員も多く、帰国して、子供の学校のことで困り抜き社長自ら南山に来られ「帰国した子供の受け入れについて、何とか南山で考えて欲しい。」と要望があり、それまでも南山では男子部、女子部とも受け入れてはいたのですが、特別な組織はありませんでした。その頃、私は学園の理事だったので、理事会で帰国子女受け入れが討論され、その係りに私が任命されたのです。私も元帰国子女でしたが、上海の日本人学校の出身でしたから現地校の経験はないのです。最初に始めたのは、籍は始めから男子部,女子部に置き、特別学級という組を作って適応できるまでそこで面倒をみて、適応が出来た生徒から男子部、女子部に戻すという方法でした。全国的に帰国子女教育研究会を南山で開催したりもしました。現実には、帰国子女が増え、特別学級では間に合わなくなり、国際部として独立するしかないと言う結論を得ました。男子部、女子部の先生方には、随分、抵抗がありましたが、職員会議でよくよく説明をし、了解を得て、学園理事会にも承認され、国際部誕生となりました。
私の一番の主旨は、入試はやるが、全員合格で受け入れると言う事でした。
苦労しましたが、遣り甲斐のある大仕事でした。昭和61年に、中日新聞社から帰国子女の適応教育に対して「中日教育賞}をいただきました。賞金30万円もいただきましたが全額、南山に寄付いたしました。教師として当たり前の事をしたに過ぎませんが、それが評価されるとやはり嬉しいものですねえ。長い教員生活の中で最も印象に残ったことでした。
昭和61年と言えば、60歳になる年ですから、そろそろ停年間際ですね。次回は?


■★まっと★のコメント
★まっと★はもうそのころには南山を卒業し、自分は大学、そして留学中だったので、実際に父・徹がどのような仕事に没頭していたのかはあまりよく知らないのです。しかしながら、父がなにかしら大仕事を手がけていることだけは把握していました。南山の発展のためによく精神と肉体をささげたものだといまだに感心しています。でも、それが父・徹にとっては最大の当時の生きがいだったのでしょうね。しかも、その多忙の中でも授業は受け持っていたし、すばらしい功績だと思います。
本当に長い教員生活でしたが、ちゃんと納得の行く仕事をひとつずつ消化してきたのですね。すばらしい人生ではないですか。今は第二の人生を充実したかたちですごすことができているのも、当時の一生懸命の裏返しなんでしょうね。そして、第二の人生も一生懸命生きている父や母を本当に誇りに思っています。
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Chinto物語 その27 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.27)
数学科に変わったのが、昭和36か37年、橋元君や浅井君達が南山を卒業したのが昭和42年、敦子さんが南山中学に入学したのがたしか昭和43年だったよね。翌年、44年に孝君が南山に入学してきたのだと記憶しています。南山は、神言会というカトリック修道会の経営する学校ですので、校長は、神父様です。神学生として男子部で学び、神父様となられて再び校長として男子部にみえた方もいます。すなわち、教え子が校長だったり。南山には、男子部と女子部があって別学なので、校長のほかに、もう一人、副校長が必要だったのです。神父様の校長が、男子部に籍があれば、副校長は女子部、その反対の時もあるのです。私が、男子部で、昭和48年に教頭、50年に副校長になったのですから、二人共、南山に在学中だったと言うわけですねえ。特に、男子部にいた孝君は居心地があまりよくなかったでしょうね。
 名古屋にはトヨタ自動車を始めとして、国際的な会社が多く、海外勤務から帰国した人のお子様の学校のこと(帰国子女)でお困りの方が多かったようです。トヨタの社長から南山で何とか帰国子女の受け入れを考えてもらえないかと言う話が起こり、、私自身が、昔の帰国子女だったこともあり、その受け入れを担当することになりました。これが、国際部の誕生のきっかけとなりました。国際部の事は、次回にしましょう。


■★まっと★のコメント
なるほど、昭和30年代から50年代までは本当にいろいろとあったわけですなぁ。姉・敦子、そして★まっと★自身も在学してたわけだし、父・徹も仕事がやりにくかったことでしょうね。
決して出来の良い息子ではなかったから仕方ないですね。居心地・・・・嫌なこともありましたが、それなりに楽しく中学、高校生活を送っていました。やはり、父上のほうが大変だったのではないでしょうか?国際部の設置準備期間からは一段と父親の帰宅は遅かったですね。一般企業との絡みもあったのでしょうね。国際センタービルの建設などにもかかわっていたわけですし、父・徹にとってももっともハードな時期だったのではないでしょうか。それと同時に仕事そのものにも張り合いがあったでしょうね。だんだんと偉いお方になられながらも、授業を担当してましたね。『教壇に立たなかったら教師である意味がない。』と豪語しておられましたが、いま、その意味がようやくわかってきたように思っていますよ。教壇に立つという意味が教員にとって、どれほどの意味があるのかを、習得するのに、自分も何年もかかってしまったわけですね。
国際部開設にまつわるおはなしが続くわけですね。楽しみです。

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Chinto物語 その26 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.26)
昨日は、生物の先生から数学の先生に代わり、担任の持ち上がりが出来て満足と言う話をしましたね。長い教師生活の中で、担任をやったのは、延べで12年、あとは、教務の時間割係やら管理職の仕事で、担任した学年の数は、たったの3学年だけで、いささか残念に思っています。しかし、南山時代は私の人生にとって貴重なそして楽しい毎日でしたねえ。今日は、免許状のお話をしますね。中学の先生になるためには、中学の教員免許、高校の先生には、高校の教員免許が必要であり、それに教える教科も指定されます。私は、京大の農学部の木原先生のもとで実験遺伝学を学んで卒業しましたので、中学と高校の理科の一級の免許状が貰えて、生物の教師となったのですが、数学の教師に変わりたいと思っても数学の免許状がないと数学を教える事は出来ません。そこでどうしたらよいか?いろいろ調べました。そうしたら三高(旧制の高校)の理科を卒業しておれば、中学、高校の二級の免許状、しかも理科と数学の両科目が申請すればとれることが判明。簡単に数学の教師に変わることが出来ました。 かって私に生物を習った生徒さんが、先生の生物は,一年中、遺伝の授業だけで、とても興味を覚えて面白かったと言っていました。黒板の端から端までを使って板書するので生徒はそれをノートに写すのが忙しかったと言います。板書が多かったのは数学の授業の時も同様だったようです。
自分で、自己を分析してみると、遺伝学にせよ、数学にせよ、途中が面倒でも、途中に間違いが無ければ、チャント(チントに似てる)はっきり結果が出てくるものに興味があったんだなあと思います。従って、今は、弓の練習で本当に苦労しています。努力しても、結果が見えないからです。計算が出来ないのが弓道ですからね。でも、へこたれずに頑張ります。途中、修正を加えながら結果が出るよう努力します。
ヒヤチント物語、どこまで続くのでしょうか?


■★まっと★のコメント
そんなに簡単だったんですか?とりあえず、教師になるまでの学歴がものを言ったということでしょうか。しかしながら、母・澤美からは父さんが必死で勉強して数学の免許状をいただいたと聞いています。やはり免許をいただいても、教えるとなると、本当に理解していないとなかなか生徒たちには伝わりにくいものですよね。苦労はあったのではないでしょうか。
さて、ヒヤチント物語ですが、まだまだ続いていただかないと困りますね。今では★まっとらんど★の大きなコンテンツのひとつになっていますし、まだ南山時代です。これから我々子供たちを大学に通わせ、★まっと★の英国留学、子供たちの結婚、それぞれの自立、引退、そして現在へとまだまだ長い道のりです。がんばって、続けてくださいね。


■姉・敦子のコメント
チントさんもとうとう数学の先生になりましたネ!途中が間違ってなければ、ちゃんと正しい答えがでるのが好きとは本当にお父さんらしい!!!!!弓だって一緒じゃあないんですか???
ちゃんと正しく射ればチント(?)あたるんじゃないですか???
ただ、数学より解き方がかなり複雑で曲がりくねってるのかな?
なんにしても、頑張ってください。

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Chinto物語 その25 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.25)
昭和29年(1954年)生物の教師として、南山に入り、翌昭和30年(1955年)5月5日京都の河原町三条カトリック教会(現在、犬山の明治村で保存)で結婚式を挙げてから2005年5月5日には,金婚式を迎えます。母さんとそれまでは、何としても元気で生きれたら良いなあと話していました。
さて、生物の教師となったものの、男子部の理科室には実験設備がなく、口で喋る講義のみの授業となって全然面白みを私自身が持てず、ある時なんか、天気のいい日に、運動場の草むしりをさせて、これも理科の実験だと生徒に豪語した覚えがあります。多分、小林君たちの学年だったと思います。それに、理科の担当だとある特定の学年のみを教えるので持ち上がりというのが、特に高校では少なく,従って担任は,英,数,国の教師に偏り安い。教師である以上、担任はどうしてもやりたい。理科の担当では、その機会に余り恵まれない。それなら、理科を廃業して、数学の教師になろうというわけで、昭和37年から数学科に担当を変更して、その年に、中二だった橋元君,浅井君達の学年の担任となり、高校を卒業するまでの5年間,持ち上がって担任したのです。次の時は、中一から高三まで6年間担任しました。右近君達の学年です。彼等の卒業が、昭和48年で、これが担任の最後でした。その後は、偉くなり過ぎて、担任は持てませんでした。残念!
教員になるには、教員免許が必要です。中学や高校の免許状には理科とか数学とか、その教科が限定されています。そう簡単に理科から数学科には変われません。免許状について、次回に触れて先に進む事にします。


■★まっと★のコメント
金婚式を二人で迎えられる夫婦は実際にはそれほど多くはないのかもしれませんね。すばらしいことだと思います。
草むしりが理科の実験だというのはかなり強引だと思いますが、理科の担当であったとしても持ち上がりでなければ担任はできるのでしょうね。ただ、せっかくの六年間一貫教育の学校の中で橋元さん、浅井さんの学年が5年、そして右近さんの学年が6年、この二つの学年しか持ち上がっていないというのはかなりの驚きです。そうですね、右近さんの学年が卒業したのが昭和48年で★まっと★が卒業したのが51年ですね、しかしながら右近さんの学年の卒業時はもうすでに学年主任か副校長にになっていたはずです。ですから、数学教師として持ち上がった最後の学年ということになるのでしょうね。
確かに、教師として教壇に立っていなければ学校で働く意味がないという父・徹の言葉は覚えていますね。★まっと★のような非常勤講師は担任を持つことはありえないので、教壇だけで勝負するしかないのでしょう。担当科目を変更するときの父・徹の猛勉強は幼いころ、母・澤美から、よく聞かせれていました。父・徹の口からは一度も聴いたことがないので次回がとても楽しみですね。

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Chinto物語 その24 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.24)
昭和35、36年に南山中学校に入学してきた者は、昭和20年の終戦の後に生まれた、ベビーブームの時の子で、志願者も多く、最も競争率の高い時代でした。その子らが、高校に進学する時に、もう一組増やすように県からの要望があり、昭和38,39年の2年間だけ高校の入試をやり、その時から、高校のクラス分けがなくなり平等クラスになりました。だから、孝君達の学年にも成績のいい者だけのクラスと言うのは無かったはずです。私は36年に入った生徒(浅井君や橋元君)を中2から高3卒業するまでの5年間,担任をしましたので、とても印象に残っていて、今でも懐かしく思い出して微笑んでいます。この2学年だけ、中学は4クラス、高校は5クラスと言うわけです。南山男子部のレベルが最高だった時代のお話でした。孝君の入学はまだですよね。山の頂上から下降気味になったときの南山生だったかもね?ではその頃の事は、次回にしましょう。


■★まっと★のコメント
そうですね。自分の上の学年まで、高校入試は中断していたように記憶しています。200名の入学で、そのまま6年後に200名の卒業でしたね。そして、自分の学年では高校入試が再会されました。我々も同じ試験を受けさせられた記憶があります。そして、250人ほどの外部入試受験者が合格しました。そして、南山中学から高校に上がる連中は一クラス分の教室準備などをさせられました。南山は私学なので、250人ほど発表しても、その殆どが公立高校入試で合格し、一クラス分ほどしか来ないだろうという読みだったらしいです。ところが、その250人のうち6人しか南山高校に実際には来なかったんですよね。だから、高校一年生は5クラスありましたが、高校2年生になったらまた4クラスに戻ってしまいました。あれはなんだったんだろう???といまだによく理解できていない自分です。
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Chinto物語 その23 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.23)
小林君が南山に入学したのが昭和31年。びくびく(何か仕出かさないか?)しながら昭和37年に無事卒業。一安心。小林のおじいちゃんが、育友会(P.T.A)の会長の時、新校舎建設の話が持ち上がり、募金集めで大変な思いをした印象が今でも残っています。お陰で立派な男子部の校舎が建ちましたがね。私は、教務で、時間割係りが多かったので、担任は免れ、二回目の担任が、昭和37年、中2(橋元恒雄君達)でした。それから昭和42年卒業するまでの5年間担任でした。卒業の時が丁度40歳でしたから、まだ若いし、しかも学年主任もやっていましたので、一番印象深い学年でした。随分、殴られた生徒もいたようですが、私のは暴力ではなく、愛のムチだったので殴られて、それを根に持って恨んだ者は一人もいなかったようです。一番楽しい、教師に生き甲斐を感じていた充実の時でした。
敦子さんも孝君もまだ小学生の頃ですよねえ。生物を教えるのを止めて。数学に変わった頃の話でした。


■★まっと★のコメント
小林社長にはかなりびくびくさせられたようですね。でも、昭和37年に無事に卒業されたわけですが、その年にカレンが生まれたわけですね。地球の裏側・英国で生まれたカレンが我が家のお嫁さんになるなんて、そのころは誰も思いませんでしたね。あの当時は学校というところで先生が生徒を殴ることに関しても規制もなかったし、軍国主義から抜け出たばかりの日本の教育においてはあまりにも当たり前のことだったのでしょう。今の日本ではとても考えられませんね。
父・徹から、『一番楽しい、教師に生き甲斐を感じていた充実の時』、といった発言、なんだかしっくりこないのは自分だけでしょうか?そういった発言を父親から聞いたことがないからでしょうか?とても不思議な感じです。


■姉・敦子のコメント
父・徹から、『一番楽しい、教師に生き甲斐を感じていた充実の時』、といった発言!しっくりこないかなぁ~?
お父さんこそ、楽しいこと大好き!辛い事いやな事嫌い!生き甲斐、充実が必要な人だと思いますが・・・・・?自分でやると決めた事はやり、やらない事はだれが何と言おうとしない。そんな感じですが・・・・・ちゃいますか????

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Chinto物語 その22 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.22)
私が、南山に勤めたのは、昭和29年からです。大学の学長がパッへ神父様、中高の校長がポンセレット神父様で、とても温厚な神父様でした。生物の教師として、最初の年は、高1,2.3の生物の授業を担当し、新米だったので担任はありませんでした。その時の高一が松本君達の学年でした。当時、南山は3クラスで、成績によってクラス分けをしていました。成績のいいクラスが一組(C組)後を平等に分けてA組,B組としていました。松本君はC組にいましたが、生徒達はこのクラス分けはいやだったろうと思います。次の年、初めて担任を持ちました。高一の担任でした。この学年は、中学の時から(中学は平等のクラス分け)レベルが高いといわれた学年で(東大に進学した平井君達)この学年は、高一で特別に、成績の良い方から平等に二クラス、残り(成績の悪い)一クラスにするということになり、担任は、中三から持ち上がりの小高さんが,残りの平等クラスを藤井さんと私と発表されたのです。小高A組,福山B組、藤井C組の担任となったのです。そこで、藤井さんと私が小高さんがこれでは気の毒だから、担任も一週間ごとに交代して、今週の担任:A組ーー、B組ーー,C組ーーとやろうと相談がまとまり実行して順調に行っていた積りでした。ところが、随分経ってから、多分父兄からだとおもいますが、ご承知無かった筈の校長から三人呼び出され、あの温厚なポンセレット校長からお叱りを受け,翌日から発表どうりの担任に戻すことになりました。その時、私のクラスB組には、平井君、長崎君達がいました。初めて持った担任の学年ですし、その年の5月5日に結婚して祝福したり、ひやかされたりした学年ですので、印象深く思い出します。そして、翌年位に、小林茂行君の登場となるのですから考えてみると全く古くからの付き合いだなあと感じます。敦子さんの誕生、孝君の誕生と福山家の歴史も長くなりましたというのが実感です。次回は何でしょう?


■★まっと★のコメント
なかなかお茶目な新任教師ですよね。ご父兄からは担任が週ごとに変わるというのはきっと好ましくないことだろうし、校長もいい顔をしないのは当たり前かもしれませんね。でも、それをしちゃうところがすごいです。若い先生の結婚ってなんとなく生徒たちは冷やかしたくなるものです。でも、きっとすばらしい思い出なのでしょうね。また、当時の生徒たちと今の時代ではかなりの違いもあるでしょうし、先生という仕事も自分がしていて思うのですが、10年前とはかなり違っています。それを考えると本当に長い間教壇に立ってきた父・徹から今の生徒たちを見ると、その変貌振りにはついていくのだけでも必死なのではないかと思います。まさか、自分が教壇に立つ予定は自分の人生のなかに計画していなかったことなので、戸惑いもかなり多くありますが、それでも今の仕事は嫌いではないのでしょう。蛙の子は蛙なのかな??でも、父・徹を超える教師にはなかなかなれません。


■母・澤美のコメント
敦子さんと孝さんが南山に入学する時、敦子さんは南山になかなかなじめず、学校のガラスを割った時はさんざんでしたね。徳島先生との出会いでやっと立ち直れて喜びました。
孝さんはお父さんと一緒の学校は辞めたほうが良いのではと言ったのですが、本人曰く、『お姉ちゃんとお父さんが休み、僕だけ学校はいやだがね。』ということ。お父さんはその時、『俺は地元の中学にやるより、頭はよいと思うから南山を受けさせるべきだとおもう。本人も行きたいのだし。』ということでした。
頭がよい・・・初めて聞くせりふじゃない?そんないきさつがありました。


■★まっと★のコメント
そうですかぁ・・・。姉・敦子が窓ガラスを割った話、記憶にないです。これは本人様からぜひともお伺いしたいお話ですね。何があったんでしょうか?中学一年生のころの話なのかな??だとすれば、自分は小学生だし、ちょっとお話の仲間に入れてもらっていなかったかもしれませんね。
父さんが『頭がよい』って、★まっと★のことを思ってたの?ちょっとハズレだったかもしれませんね。あんまりよいほうではないみたいですよ。頭がよかったら、もうちょっと金儲けもうまかったかもしれませんね。そのような頭のよさではなかったのかな?残念です。


■姉・敦子のコメント
ええええええ????窓ガラス????覚えてないだわさ!確かに中学校1・2年の時の友人は、後の他人でした。なじんでなかったかもしれないけど、そのせいでガラスは割らないと思うけど・・・・・!?たまたま、割ってしまった事が、母上には日頃の心配事と重なったんじゃない?まぁ~覚えてないんで、なんともいえませんが・・・・・
タクリンが頭いいってお父さんが言ったわけね!そりゃ、お父さんの子だもん自分の分身の息子は頭いいに決まってる。。。。っと父上は思ったいたのでしょう!!!頭は良かったかもしれないけど、勉強が嫌いだったわけね!ハイ!
金儲けと頭いいは関係無いだわさ!!!!我家も只今貧乏!
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