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『ぶん★文★ぶん』目次 [『ぶん★文★ぶん』]

書き綴っているエッセイ:『ぶん★文★ぶん』の目次ページです。


ピアニスト:福山孝の音楽エッセイ
☆-エッセイ『ぽっぽっぽぉ~~~♪ はとぽっぽぉ~~~♪』
☆-エッセイ『ステージに立つということ』
☆-エッセイ『モーツァルトは大切なレパトワ』
☆-エッセイ『映画:戦場のピアニスト』
☆-エッセイ『映画:船の上のピアニスト・・好きなシーン
☆-エッセイ『超お気に入りの一枚』 
☆-エッセイ『ちょっとうれしかったこと』
☆-エッセイ『前衛音楽と言われても』
☆-エッセイ『マズルカの三拍子』
☆-エッセイ『★カレン★のプロ根性』
☆-エッセイ『あわせ稽古』
☆-エッセイ『ベーゼンドルファー・・・日本にたった3台』
☆-エッセイ『信じられないホール』
☆-エッセイ『25年の重み』
☆-エッセイ『ベーゼンドルファーとの再会』(青年期)
☆-エッセイ『大好きなピアノ』
☆-エッセイ『二台のピアノと連弾の演奏』
☆-エッセイ『パフォーマーとして』
☆-エッセイ『ピアノの三角』
☆-エッセイ『グランドピアノのふた』
☆-エッセイ『幼児のピアノ教則本考察』
☆-エッセイ『演奏者&教育者』
☆-エッセイ『社会における活動』
☆-エッセイ『ムシンスカ教授の一言』(青年期)
☆-エッセイ『大学で出会った二人の先生』(青年期)
☆-エッセイ『大学受験』(青年期)
☆-エッセイ『初めての先生が辞めてしまって・・・』(少年期)
☆-エッセイ『はじめてのピアノの先生』(幼少期)
☆-エッセイ『ピアノとの出会い』(幼少期)


自閉症・学習障害についての研究
☆-エッセイ『成人の自閉症&アスペルガー症候群』
☆-エッセイ『広汎性発達障害におけるオウム返しについて』
☆-エッセイ『高機能自閉症について文部科学省の見解』
☆-エッセイ『大人の学習障害について』
☆-エッセイ『LD(学習障害)について、定義の解釈)』
☆-エッセイ『わかりやすいかも(about自閉症))』
☆-エッセイ『自閉に関する定義・・・ウィキによると)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その8(慌てること&パニックすること)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その7(言語発達の遅れ)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その6(視覚優先)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その5(視線が合わせられない))』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その4(自閉における聴覚の作用)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その3(習慣性へのこだわり)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その2(多動の傾向)』
☆-エッセイ『教育現場で出会うこと その1(オウム返し)』


福山孝:生い立ちエッセイ
☆-エッセイ『4人組それぞれの人生』(少年期)
☆-エッセイ『教室で見る父』(少年期)
☆-エッセイ『通学そして帰路』(少年期)
☆-エッセイ『友達をつくる』(少年期)
☆-エッセイ『母は共犯者』(少年期)
☆-エッセイ『中学受験』(少年期)
☆-エッセイ『お引越しと転校』(少年期)
☆-エッセイ『聖マリア幼稚園』(幼少期)
☆-エッセイ『姉・敦子の入院』(幼少期)


★カレン★とのこと
☆-エッセイ『2013年・★カレン★の帰省。』
☆-エッセイ『古い原稿が出てきました。』
☆-エッセイ『指輪のお話 ~銀婚式~』
☆-エッセイ『運命的な出会い』
☆-エッセイ『Sweet Ten Diamond』
☆-エッセイ『★カレン★の日本語、自分の英語』(青年期)
☆-エッセイ『新しい文化の中での新婚生活』(青年期)
☆-エッセイ『婚約から結婚』(青年期) 
☆-エッセイ『★カレン★初めての日本』(青年期)
☆-エッセイ『父にびっくり』(青年期)
☆-エッセイ『恋する女性』
☆-エッセイ『恋愛スタート』(青年期)
☆-エッセイ『★カレン★との出会い』(青年期)


日々の生活の中で
☆-エッセイ『テレビ見ていたら、カナダ人のコメントにちょいとイラついたかも』
☆-エッセイ『父の死・・・大きすぎるほどの出来事』
☆-エッセイ『実はちょっと怖かった・・・・』
☆-エッセイ『なんだか不思議・・・(再入国ビザ申請)』
☆-エッセイ『★ちゃかえ★38回目のお誕生日』
☆-エッセイ『息子のような大親友★ちゃかえ★の死』
☆-エッセイ『WEBSITE考察・・・静的or動的』
☆-エッセイ『英国での受験』(青年期)
☆-エッセイ『英国での生活スタート』(青年期)
☆-エッセイ『人間って、ちょっと勝手!?』(青年期)


教育現場での気付き
☆-エッセイ『先週末の卒業式の日・・・とってもうれしいことがあった・・・』
☆-エッセイ『★カレン★の英語教育の研究』
☆-エッセイ『素直な学生に出会えて素直にうれしく思う』
☆-エッセイ『学級日誌とは。。。。。』
☆-エッセイ『★カレン★ 最高の笑顔』
☆-エッセイ『幼児教育を目指す方へ』
☆-エッセイ『二十歳になると』


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ぽっぽっぽぉ~~~♪ はとぽっぽぉ~~~♪ [『ぶん★文★ぶん』]

皆さんご存じでしたか?みなさんが「はとぽっぽぉ~♪」って・・・タイトルっておもってませんでした?この歌・・・・・実は「鳩」っていうタイトルなんですよ。しかも。。。。。今までのこの歌の歴史の中で歌詞が変わってるって・・・・・ご存じでした??

最初の歌詞↓↓↓↓

「鳩」
1.ぽっぽっぽ、 鳩ぽっぽ、
豆がほしいか、そらやるぞ。
みんなでなかよく食べに来い。
2.ぽっぽっぽ、 鳩ぽっぽ、
豆はうまいか、 食べたなら、
一度にそろって飛んで行け。

1941年に改変された歌詞↓↓↓↓

「鳩」
1.ぽっぽっぽ、はとぽっぽ、
豆がほしいか、そらやるぞ。
みんなでいっしょに食べに来い。
2.ぽっぽっぽ、はとぽっぽ、
豆はうまいか、 食べたなら、
みんなでなかよく遊ぼうよ。

おとなしくなっちゃってますよね。原典の歌詞がすきだなぁ~~★そんなことを考えながらいつもこの歌、、、、、頭の中でぐるぐると・・・・・。この歌・・・・・尋常小学唱歌なんだよね・・・。古い歌・・・・
最近の子供たち、、、、歌わないよね・・・・・♪

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ステージに立つっていうこと [『ぶん★文★ぶん』]

先日、友達とも話していたんだよね。

今、自分は57歳…・あと数年で還暦を迎えることになります。そして、還暦からも生きていれば年々加齢していくことになるわけだけど…・そこでひとつ最近考えることがあるんだよね。

以前にも書いたことがあるんだけど、パフォーマンスってどこからどこまでなんだろうかってね。

多分、自分にとっては生活の一部であり、時として日中は通常通り教壇に立って講義をして、リハーサルの時間にホールまで向かいます。そして、以前は衣装を着けてのリハーサルはしなかったけど、最近では衣装を着けてリハーサルに臨むようにしています。

特に名古屋での公演はお客様が入場されるとき、カレンと自分の二人でお客様をお迎え入れするようにしています。この時にはカレンはウェルカムドレスを着用し、自分は通常のスーツまたはブラックフォーマル。
本番開始10分ほど前に楽屋に戻り本番衣装に着替えます。

お客様の一日って、どんなだろう・・・・

お客様それぞれによって異なるだろうとは思いますが、学生のみんなはが㏍ぷで講義が終わり、会場に向かってくれるのでしょう。
社会人のみなさんは日中、仕事をしてから会場に足を運んでくださるでしょう。
主婦の皆さんは家事を早めに済ませ、帰宅する家族のために晩御飯の準備までして家を出られる方もいらっしゃると思うんだよね。

そんななか、我々の仕事はもうすでに始まっているのかもしれません。

夜のお出掛け…何を着ようかな。。。。
ちょっと美容院に出かけてからコンサートに向かおうかな…。
会場ではお友達に会えるかな?
演奏会前にお友達とお茶でもしてゆっくり出かけよう。
演奏会が終わったら食事をして帰ろう。どこのレストランで食事をしようか。
いろいろなことを事前に考えてくださって、皆さん演奏会会場に足を運んでくださることでしょう。

お客様のパフォーマンスへの期待と楽しみはもうすでに始まっているのかもしれませんね。
我々のお仕事はそのようなお客様の気持ちを裏切ることなく楽しんでいただけるよう最善を尽くさなくちゃいけないのはわかっているんだけど。。。。。。

この年になって最近考えることは、

さて、いつまでステージに立ち続けられるのだろうか?

生涯現役のピアニストでいたいって思う気持ちは絶対的なものなんだけど、
それと同時に、もしも足腰が弱ってしまって、ピアノは弾けるけど、
ステージ中央のピアノまで歩けないとか
・・・・それでもいいのかな?
車いすを押してもらわないとステージ中央のピアノまでたどり着かない
・・・・それでもいいのかな?

わからないんだよね。
えぇ~~~!!だいじょうぶなの??なんてお客様に感じられてしまって…
それでもピアノさえ弾ければいいんじゃないの??って、思えない自分がいます。

お客様の一日をHAPPYに過ごしていただきたい…
そう思いながらパフォーマンスを継続してきたにも関わらず、
お客様に不安や心配をおかけしてしまう状態になったら…
やはり引退を考える時なのでしょうか?

自分の中ではどんな形であれお客様が聴いてくださるのであればそれはパフォーマンスとして成り立っていると思う部分もあれば、お客様の前で自分が輝けないのであれば、それはもう過去の演奏家になってしまった証拠…と思う自分もいるんだよなぁ・・・・。

まだ、足腰も大丈夫だし、ステージで動き回ることができる元気はあるけど、いつかそんな時がやってくるかもしれない。その時に自分がどのように考えるか・・・・少しずつ準備していかなくてはって思うような年齢に達してきました。。。

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先週末の卒業式の日・・・とってもうれしいことがあった・・・ [『ぶん★文★ぶん』]

先生という職業に就いて、もう25年以上の年月が過ぎている。
そんな中、先週土曜日の卒業式ではとてもうれしいことがあった。

ちょうど一年前、昨年の卒業式に送り出した卒業生と会うことができた。
今年の卒業生のちょうど一年先輩にあたる。

一年前の卒業式でもやはりピアノの演奏をさせていただき、
その夜には卒業生たちと宴会の機会があった。

2年課程の専門学校なので、卒業式を迎えるときは、3月の誕生日以外の学生は
皆お酒が飲める年齢になっている。

彼らとの付き合いは専門学校一年生のとき、即ち、彼らが18歳。
そして、二年生のときと二年間あった。二年間の付き合いとなる。

シャイな奴でなかなか人と話せない男子学生がいた。
しかし、試験になると、時々びっくりするほど優秀な成績をとることがあった。
でも、この学生がかわいくて仕方なかった。
なぜだかわからないが・・・・
そして、二年が経過して卒業式に至っても
その学生は就職を決めることができずにいた。
とても心配だった。
面接に出向いてもきっと性格上、はきはきと答えることはできなかっただろうし、
緊張とパニックが邪魔をして彼のよさをアピールすることは到底無理だとわかっていた。
それでも、彼なりに努力をし、就職活動には前向きだった。
何とか卒業するまでには就職を決めてほしかった。

確かに現代社会・・誰もが知るように・・・・
状況は良くなってはきたといわれているが、実際にまだまだ就職難は続いている。

卒業式後の宴会で、その学生に話した。
『先生はめちゃくちゃ心配だぞ!!就職が決まったらちゃんと知らせろよ!!』
そういって、宴会を後にして丸々一年会うこともなかった。
この一年で一度だけ『元気にしてるか?就職のほうはどうだ?』と
メールをしたことがある。
しかし、返信はなかった。

今年の卒業式当日のことだ。
卒業式を正午近くに終えて、一階の事務所に立ち寄り帰宅の準備をしようとしたときだった。

『福山先生、○○○○○クンという昨年の卒業生が先生に会いたいといって
学校に来ているということです。どこにいるかはわかりませんが、
先生、この学生を覚えていますか?』とたずねられた。
その○○○○○クンこそあの卒業生だった。
大急ぎで学校中を探し回った。
奴は校門の外でポツリと立っていた。
今年の卒業式当日ということもあって、ご父兄や在校生、卒業生で校門あたりはにぎわっていた。

『久しぶりだなぁ~。元気にしてるか?』
『あっ!はい。』・・・・・この一言がでるのにも以前どおり、若干時間がかかった。

そして、少し間を空けて・・・・・

『先生が就職が決まったら知らせろって言ったのを覚えていたので・・・』と続けた。

『決まったのか?』

『あっ!はい。』

『そうか、、、それは良かったなぁ~~!!』

『あっ!はい。』

相変わらず口数は少なく、自分に会った事で緊張度が一段と増しているようにも見えた。

『どこに決まったんだ?』

『あのぉ~~~・・・・あのぉ~~。』

『んっ??』

『トヨタ系列の企業で・・・』

『製造か?デスクワークか?』

『・・・・・・・・・』

『ん??・・・職種は?』

『メール作業です。』

『そうかぁ・・・。良かったなぁ。先生はめちゃうれしいぞ!!』

再び間を空けて・・・

『はい。』

当然、会話が盛り上がるわけではないのだが、とってもうれしかった。
わざわざ学校に電話をくれて、自分を探してくれたこともうれしかったし
卒業式というこの日に、そして、ちょうど一年前に卒業した卒業生が会いにきてくれて
就職の報告をしてくれた。
なんだか、心のそこから頑張ってほしいって思った。

良かった。。。。。その一言に尽きる。

卒業式がより一層素敵な一日になった。
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テレビ見ていたら・・・・カナダ人のコメントにちょいとイラついたかも・・・ [『ぶん★文★ぶん』]

先週の話になるんだけど。。。。。
テレビを観ていたんだよ。

外国人にいろいろと尋ねていた・・・・
それで、日本と自分の出身国とどちらが住みやすい??・・・なんていう質問。
とりあえず、面白い企画かも・・って思って
そのまま観ていたんだよね。

カナダ人の男性が言った一言・・・・

『日本人はむやみにお疲れ様っていう。』って発言した。

急いで会社に朝出向いてトイレにいってすっきりしたらしい。
そして、朝から同僚の日本人に『お疲れ様』って言われた。
まだ朝出勤したばかりなのに、お疲れ様ってどうよ!!・・・って豪語してた。

それは確かに日本語で単純に考えたら、
まだ疲れてる時間帯じゃないジャン!
朝、出勤したばかりジャン!!って思うんだよね。

ある意味正しいかも。。。。

日本人にとって『お疲れ様。』っていうのは挨拶の一部であって
英語で言う「Hello」って感じも含まれてるよね。
結構流暢な日本語を話すくせに、そういう日本の習慣、文化を理解できないなんて・・・

でもね、その後のこのカナダ人の発言が自分をとてつもなくイラつかせたんだよ。

テレビに向かって行った一言
『ありがとう♪(#^ー゚)v、いつも思っていた文句を言わせてくれる機会を与えてくれて。』

マジにこいつアンポンタンじゃねぇの!!??って思った。

そんなに文句を言わなきゃいけないほどの国:日本ならさっさと自分の国:カナダに帰りゃいいじゃん!!
日本に住むならそれなりに文化も学んでほしいって思う!
その準備と心構えができてないなら、さっさと帰れぇ~~~っ!!っておもっちゃう。
不満や文句がある国で稼いでいるくせに・・・・
いやいや、、、わがままな外国人が多いなぁ・・・。

★カレン★の部下たちを見ていてもそう思うし、
本当になんなんだっておもうよ!!

面白いって思った番組も、結局は不快な気持ちにさせられて終わった感じでした。

ちょっとこんなことを根に持ってみた・・・
ヽ(__ __ヽ)コケッ!!
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父の死・・・大きすぎるほどの出来事(11月17日更新) [『ぶん★文★ぶん』]

自分の中に「父が死ぬ」という文字が頭の中に浮かび始めたのは今年の夏を過ぎた頃だったかもしれない。
カレンは自分がその準備を少しずつ始めることに非常に否定的だった。
しかし、父を長男としてしっかり送ることは自分にとって人生の中でもとても大きなイベントだと考えていた。
それだけに失敗や手落ちは自分が許せなかった。

父の遺影になる画像を・・・・。すでに二年前に写真館で撮影したものがあった。
実際、遺影にと考え、家族写真を撮りながら父一人の写真も撮影しておいた。
写真が出来上がったとき、自分たちが知っている父に比べると細く小さくなってしまっていて、
その迫力は何も感じられなかったことがとても悲しく、
これは遺影としては無理だね・・・・って、母とも話したほどだった。
しかし、亡くなる直前の父と比べてみたら、
それはそれは立派な父だったのかもしれない。
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いま、こうして見返してみても、とても良い遺影だと思う。

カレンには礼服はあるのかともうここ数年はなんども問いただしたものだ。
カレンは仕事用の黒いスーツが多いのでまったく問題はなかった。
実は問題があったのは自分だ。
ステージ衣装はあるが、礼服と名の付く黒いスーツは持ち合わせていなかった。
父の人生の終焉ステージ、、、、、何気にステージ衣装で父を見送ることになった。
ある意味、自分はステージ衣装で父を送るのを望んでいた部分があるかも・・・・
父がいなければピアニストという道は開けていなかったはずだから・・・・・。

父の引退前後からの生活は楽しくも有り、また、癌との戦いでもあった。
特に最後の4年間は父にとってもつらい日々だったのではないだろうか。
80才を過ぎてから大腸癌のため人工肛門となり、
手先もあまり器用ではない父にとってはかなり大変だったと思う。
母の手厚い看護と介護。父がそのことに感謝していたのか、
当たり前だと思っていたのかは定かではないが、
母がいつも父の傍らで父の世話をしていた姿はカレンの目にもまた自分の目にも焼きついている。
そして、亡くなる3週間前頃だろうか・・・・父は食べ物、飲み物を欲しがらなくなった。
この時点で父の体力が低下することは言うまでもない。

父の様子があまりにも心配になり札幌の姉に連絡。
姉は名古屋に来てくれた。その頃は父は横になっている時間が多くなっていた。
姉は父が家の中を動きやすくなるように部屋の片づけを始めた。

父がバス停から自宅まで歩けなくなってきたので自分は父に車椅子を購入。
家族全員で父の最期を真剣に考えはじめた。

日が経つにつれて、父の体力は減少した。
病院での点滴を2~3日に一度打ちにいく。
しかし、ドクターからは「本人は楽になりますが、これはあくまでも延命治療です。」と家族に話した。
父も、そして家族も延命は望んでいなかったが、
父はまだ生への執着心が感じられたので、
家族全員で協力し、父の点滴のために父を病院へ運ぶ。

姉が連絡してくれて、札幌の義兄も名古屋に来てくれた。
その時点で家族はある意味、覚悟ができていた。
それでも、ドクターが父に「入院しますか」とたずねると、「いいえ、帰ります。」と元気に答える。
確かに入院は二度と帰宅できないことを意味している。
それを父は知っていたのだろう。

ドクターも非常に協力的だった。何があっても必ず救急車を呼んでください。
そしてこの手紙を救急隊員に渡してください。と言って、一通の封筒に入った手紙を渡された。

父は家族がそろうことが大好きだった。
父に母が義兄も11月3日には名古屋に来てくれることを伝えていたので、
日付は若干混乱していたのだろうが、「健二くんはきたかね?」と母に聞く。
母は「3日にくるからまだだよ。」
「そうか、健二君がこれば全員そろうな。」と、うれしそうな顔で言った。
その頃、父の身体はもう癌で蝕まれていたに違いない。
あちこち痛がり、立つことも座ることも、そして寝ることも大変な毎日になってきていた。
そして、11月3日、義兄が名古屋に到着。一家がそろった日だ。
父は居間のソファーで寝ていることが多かったが夕食時にはテーブルに着くといった。
家族全員で父を居間からダイニングへ移動させた。
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三日の夜は父は具合が悪そうだったが、、、、
それでも家族がそろうことがとてもうれしかったのだろう。
そして、4日。もう、点滴を終えてちょっと顔つきにも生気を感じられた。
DSC_4208
父が亡くなる前日の夜。(実際には前々日)
ほんの少しだけテーブルに着いた父、そして、母のビールを一口なめた。
父が「本当に福岡先生(名古屋記念病院の主治医)はいい先生だなぁ~~。」
あぁ~~っ、と言いながらビールを喉に通し、その後、父は再びソファーへ、
そして、ベッドへと移動して睡眠。
幸せの団欒・・・・最後のひと時だった。

そして、翌日は自分が仕事を終えて帰宅したのが23時ごろ・・・・。
ダイニングには義兄がいた。
父は通常ならベッドに寝ているはずの時間なのに、
居間のソファーにいた。帰宅の報告を父に・・・。
すると父は姉を促し、ベッドに入るという。

車椅子に父を乗せ寝室へ。
自分も手伝おうとするが、姉が義兄に手伝いを頼む。
自分は札幌公演、名古屋公演、横浜公演を控えているので、
姉は自分が怪我でもしてお客様に迷惑をかけないよう、気遣ってくれた。

そして、父はベッドルームへ。
もう、父は自分の力でおきることも寝ることも座ることさえもできない、
父が寝室で、「ごめんねぇ~~。こんなんになっちゃって・・・・・。」という。

なに言ってんだよ!!
そんな情けないこと言うなよ!!
俺の親父だろっ!!

父の寝室にはもういられなかった・・・・
涙が止まらない・・・泣いた泣いた!!
こんなにも涙が出るものかって怒れるほどに泣いた。
そして、母の冷蔵庫から缶ビールを一本。
義兄と飲んだ。

自分は遅い帰宅だったので、隣の自宅に戻り、夕食。
すると、義兄から電話。
「お義父さんの呼吸がおかしいから、今夜が山かも・・・。」とのこと。
夕食もそこそこ、カレンと再び隣の本宅へ。

父の呼吸は荒かった、。
でも、こちらの話は理解しているようだった。
返事もしてくれた。
姉が父の肩をさすり、カレンが父の手をさする。
自分は父の右手をもって脈を感じながら父の顔を見ていた。
かけられる言葉・・・・見つからない。

「お父さん、孝だよ。わかる??」
なんとなくうなづいてくれている。
「大丈夫???」
再びうなづく。

時折、強く父が手を握り締めてくれる。
痙攣を起こしているだけかもしれない。
しかし、自分には父が心の中のいろいろな思いを伝えているように感じた。

自分にはどうしようもない・・・父の瞳孔が開いていくのがわかる。
停められない。つらそうな父、どこを見ているのかもわからない。
そんな父を見ている自分もつらい。
どうしたらいいんだ・・・・・・
もう、何も考えることができない。
つらそうな父を見ていて口から出てしまった言葉・・・・・・
「もう、がんばらなくていいよ・・・・。」
あぁぁぁ・・・・言ってしまった。
父はある意味、この一言を待っていてくれたのかもしれない。
すぅ~~~~~っと、父の呼吸が止まった。
逝ってしまった・・・・・・・。
つらい時間・・・・父にも自分にも・・・・・

しかし、見方をかえると、我々はとっても幸せな家族だと思う。
父を家族全員で、父が望んだ全員で見送ることができたんだから。

そう、父のおかげでこんな大切な時間を家族で共有できたこと。
やはり父はかっこいい!!

気が付けば6日の午前0時を回り15分ごろのことだった。
義兄が救急車をが呼んだ。
母、カレン、自分が父に付き添って病院へ。
姉夫婦は徒歩で病院までやってきた。

父の死亡時刻は2013年11月6日午前0時46分となった。
父の葬儀は南山教会でと思っていたので、南山教会への出入りされている葬儀社に電話。
父を病院で着替えさせ、葬儀社の用意してくれた車で自宅に遺体は戻ってきた。
死亡診断書とともに・・・・・。
真夜中にもかかわらず、父の主治医、福岡先生も駆けつけてくれた。

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そして、葬儀社と朝までお話し、費用から日程まで大体のことが決定した。
自分が札幌公演を控えていたので、週を越えての通やと告別式になってしまった。、
自宅が大好きだった父。一日でも長く自宅に居られたことを喜んでいたかもしれない。
毎日葬儀社の方が父の遺体のためにドライアイスを交換してくださった。
自分も毎日名古屋にいる限りは父の顔の白布をめくっては父と話をした。
亡くなって一週間かけて父はお骨になったことになる。

札幌公演を終えて、11日。父の前夜式(通や)。
たくさんの方が南山カトリック教会に来て下さった。

自分の10学年上の学年の先輩。父が大好きだった学年。
中学二年から高校3年まで担任を受け持った学年は
父にとってもっとも印象に残る学年だといつも話していた。
本当にたくさんの卒業生が参列してくださった。
家族であの学年は相思相愛だったんだねぇ・・・って話した。
父も年齢的に若く、教諭人生の中で最高の時代だったのだろう。
そしてテレビの青春ドラマのような先生を父は演じきり、
教え子の皆さんは、その頃の社会環境から強い日本を背負う団塊の世代の先輩方。
なんだかその師弟関係はやきもちを焼いてしまいそうなほど熱い。
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父は前夜式の夜は教会に宿泊。寂しいのではないか・・・・という姉。
そこで、父のソファーにいつもいるキティーちゃんが父の添い寝をした。
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白いカサブランカに赤い薔薇・・・・父の大好きな花ばかりでとてもシンプルではあるが、
父らしい祭壇。家族は皆満足。
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前夜式(通や)をおえて、我が家でピザをおつまみに酒盛りする福山家。
とにかく毎日のように酒盛り・・・・一緒に食卓を囲めなかった父には申し訳ないが、
いやいや、毎日良く飲みました。
父も喜んでいるはず・・・と勝手に家族は信じている。

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英国の家族からも薔薇の花が届いた。

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そして、12日は告別式、
父の大好きな学年は前夜式だけではなく
告別式にもたくさん集まって下さった。
本当にありがたいお話だ。
そして、父が大好きな学年の先輩方に是非とも父の棺を担いでいただけたら・・・と思い、
頼んでみたら快諾していただけた。
親族からは義兄、そして団塊の世代の先輩方が父の棺を担いでくれた。
父も絶対に喜んでいると思う。

そして、火葬場、拾骨、帰宅・・・・・最後は父をしのび・・いったん帰宅してから焼き鳥へGO!!
最後まで福山家らしいお葬式を済ませた。

慌ただしい中での父の告別でした。
間に自分の演奏会も挟んだりで、しっちゃかめっちゃか。。。。。
今となっては少し笑えることもいっぱいありますが。
この一週間、、、、本当に家族全員お疲れ様だった。
そして、ちょっとへんな言い方ですが、
福山家の大切な思い出がまたひとつできたような気持ちでいられること、、、
やっぱり父に感謝。
o(*'▽'*)/☆゚'・:*☆

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今、父はこんなにちっちゃくなっちゃった。
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モーツァルトは大切なレパトワ [『ぶん★文★ぶん』]

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 40代くらいの頃だろうか。コンサートのプログラムにモーツァルトの作品を組み込むことが増えてきた。小さい頃からピアノを学習していた自分にとって、モーツァルトのソナタなどは練習の過程でこなすものだと知らないうちに理解していたような気がする。しかし、それは大きな間違いで、年齢とともにモーツァルトを演奏することがとても楽しく感じられるようになってきた。テクニックのmんでは過激に難所が多いわけでも無いのだが、ツェルニやクラマーのように次の音が予想できるかのような音運びではあるものの、その中にあふれる音楽性はたまらなくかわいく、お茶目な部分があり音の遊戯が感じられる。やさしい運指や音運びの中に哀愁や悲哀、喜びや怒りなどがものの見事に表現されている。

 明治時代に西洋音楽が日本に入り込みそれが定着する過程において、バッハからモーツァルトあたりの年代までの作品は、特にドイツものに関しては、かっちり拍子どおりメトロノームにびっちりあうくらいの勢いで演奏されるべきであるといた哲学が日本には植えつけられていたように思う。奏法もドイツ奏法と呼ばれるのかどうかはわからないが、指をきっちり丸く整え肘の力を抜いて・・・・(若干、意味不明)・・・・小指までもがま~るく整えられた基本の指の形にのっとり、ひたすら正確に拍子に合わせて演奏するパターンだろうか。
確かに古いレコードや昔の巨匠の演奏などを振り返るとそういった演奏も少なくない。しかしながら、それがすべてだとは到底思えない。

長いピアニスト人生の中で、自分は学生時代よりこよなく愛したショパンにかなり影響されたと思う。ロマンチックで時に切ない和声の展開にはイチコロである。今でもどうしてもショパンの作品は演奏会のプログラムに組み込みたくなる。しかしながら、そんな自分もモーツァルトに魅了されている。ただ、どうしても華美なモーツァルトというか間であったり、ルバートであったり、若干やりすぎになってしまう気配は多分多くの人が感じられるかもしれない。でも、あまり気にしていない。時に2ちゃんなどでたたかれていたりするのも閲覧する機会があるが、それでも自分のスタイルはこんな感じ・・・って自分のモーツァルトを貫き通したい。基本的に誰にでも悪く言われない演奏はとてもすばらしいかもしれないが、十人十色でも良いのでは・・などと自己弁護しよう。

ロマンチックすぎる自分のモーツァルト。。。。とても気に入っている。




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2013年・★カレン★の帰省 [『ぶん★文★ぶん』]

 だんだんと自分たちの両親も加齢を続け、自分の父もそれなりに日bの生活の中で加齢に伴う老化を魅せつつけられつつ生活している。今のところ母が元気に父の介護(?)をしてくれているので隣同士に住む親子であるわれわれは平和な日々を暮らしている。もしも、母に何かがあったとしたら・・・自分と★カレン★では父の世話をすべてすることはほぼ不可能といえるだろう。日々、母に感謝している。
 
 自分の父親がこのような状態にあれば、当然のことながら、若干若いとは言うものの、★カレン★の両親も同じことが言えるはず。若い頃、われわれ夫婦は念に二回ほど帰省をしていた。あの頃は若いからこそ「帰りたい。」という気持ちがあったし、自分自身も英国で楽しみたいという気持ちもあった。しかしながら、現在は生活することが精一杯で、年に二回の渡英は経済的にも時間的にも仕事との兼ね合いでかなり無理が生じる。

 ふと、姉夫婦のことを考える。姉夫婦は若い頃、ほとんどといってよいほど規制をしていない。しかしながら、数年に一度両親を海外旅行に招待して楽しい時間をすごしていたように記憶が残る。しかし、この数年、姉は頻繁に名古屋に戻ってくる。非常にありがたい。母も喜ぶし、父は・・・すぐに姉が帰省していたことを忘れてしまうが一緒にいる時間は楽しんでいるようだ。姉の帰省を間近に見ていると、なかなか★カレン★を返してあげられないことに申し訳なさを感じてしまう。ここ数年、自分はほとんど英国に帰っていなかった。昨年のクリスマス、6年ぶりくらいに★カレン★と一緒に帰省した。それまでの期間、★カレン★を一人で夏とクリスマスに帰すようには努力したものの、やはり夏休みに二週間ほど帰省させてあげることがやっとだった。★カレン★自身の仕事の兼ね合いもある。しかしながら、それよりも親はいつまでも健在でいてくれるわけではない。できる限り★カレン★と両親の時間を作ってあげなければと心では思うが、実際の生活の現場ではなかなかそうはうまくいかないものだ。

 姉のように、この年齢になって頻繁に変えtt来るのもひとつの生き方かもしれない。しかしながら、英国の両親と過ごした若い頃のホリデーは忘れられない素敵な思い出になっている。今、英国に帰省してもほとんど両親とともに家の中で過ごすしかないのだ。義父はほとんど車椅子、そして出かけることは非常に少ない。勿論夜の外出など考えられない。英国の両親もまた、日本の両親と同じように義母が元気なので不憫に思うことがある。義母も外出、そして浪費(?)が趣味名人だけに、家の中でくすぶっていることは多分とてつもなくストレスだろう。★カレン★が帰省している間だけは一人で買い物や外出を楽しむ時間もできる。そのためにでも★カレン★はやはり時々英国に帰省することが必要・・・とも考えられる。

 日本では姉も義兄もっ両親が九州に旅に出かけるとき、北海道からわざわざ九州まで足を運んでくれたり一緒に時間をすごし思い出を作ってくれている。・・・勿論、父の記憶にどれだけ残っているかは定かではないが・・・・。それもひとつの親孝行の手段であるし、われわれ子供としての自己満足の部分もあるだろう。

 姉たちのように日本の両親と一緒に時間をすごしてあげられないし、英国の両親に対してはほとんど★カレン★に任せっぱなしな部分も否めない。仕事に明け暮れているわけでもないが、実際に生活となると日々の暮らしの中でやはり二週間ほどのホリデーを簡単に取ることは日本社会の中ではかなり困難だと思われる。

 若いところは今よりももっともっと自由な仕事バランスだったように思う。しかしながら、この年齢に達し社会との関わりが深くなればなるほど、長期の休暇はとりにくいものだ。姉夫婦たちのように今の時代に両親との時間を大切にすることもひとつの生き方かもしれない。しかし、われわれは若い頃、年齢相応以上に英国にの帰省したいたことをこれからも思い続けたい。あのころの帰省では、両親を毎晩のように連れ出し、正装で食事に出かけたり、カジュアルにパブをはしごしたり、ヨークシャー中をドライブしたり本当に楽しいことを毎日したものだった。今となっては義父の健康状態からすればすべて不可能なこと。あれはあれでよかった。

 義兄は立派に会社を経営し、今だからこそこうして夫婦で名古屋にも帰省してくれる。ありがたい。そのことに関して一時はコンプレックスのようなものを感じたこともある。しかしながら姉夫婦はできることを地道にやってくれている。われわれは楽しいことを先に手に入れてしまっただけなのかもしれない。英国に帰省し、英国の両親とああだった、こうだったと思い出話・・・それはリビングのソファーに座りながらもできること。そんな時間をもっともっと作れるように日々精進しなくては・・・・。

今回★カレン★はかなりつらい思いをして日本に帰ってきたことだろう。義父の体調はけっして芳しいとはいえない。そんな中「Good bye」を言わなくてはならないのはつらいことだ。今年の夏はなんとしても★カレン★を英国に帰省させたいと考えていた。6月中に日程を決め、7月21日の飛行機の予約をした。予約した二日後のことだった。★カレン★の妹より電話がはいり義父が体調を崩し救急車で病院に運ばれ、急遽入院ということになった。その場で★カレン★に帰るかとたずねたら、折角飛行機を予約したので、もう少し様子を見るといった。自分の心の中ではもし間に合わなかったら・・と不安がよぎった。しかし、義父のせいに対する執着心と★カレン★が帰省するということを待ちわびる気持ちが彼の健康を支えたのではないだろうか。日々回復していった父は一週間ほどで退院することができた。英国ではベッド数も少ないので入院日数は非常に短い。看護師が来宅し自宅看護のケースが多いのも事実だ。そして、★カレン★が日本を出発する日を何とか迎えることができた。★カレン★が英国に到着してまもなく再び義父は体調を崩したらしい。口数が少なくなり、食欲も無く朝からぐったりとした様子だったそうだ。★カレン★はかなり心配したらしい・。しかしながら午後より少しずつ回復し歩行などにはまだまだむずかしさがのこるものの徐々に話すこともできるようになったという。こうして二週間の滞在。★カレン★もかなり疲労があったと思う。もし必要なら、帰国便のチケットを無駄にしても英国滞在を伸ばしても大丈夫だと★カレン★には伝えたが、★カレン★は今回、予定通りに日本に戻るといった。★カレン★もまた強い女性だと思う。そして、★カレン★は昨日無事に日本に帰ってきた。

 あと、何回英国の両親と顔をあわせることができるかわからないが、できる限り★カレン★を帰省させてあげることが28年間一緒に日本で生活している自分の義務なのではないだろうか。そんなことを強く思わずにはいられない。

今年の暮れ・・・・再び★カレン★と一緒に英国に帰省できればよいのだが・・・・。
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古い原稿が出てきました。 [『ぶん★文★ぶん』]

★カレン★が職場のオフィスで見つけたのですが、とても古い原稿が出てきました。
1998年2月28日の講演のためのスピーチ原稿です。14年も前の原稿。今とはまた異なるのかもしれません。
原稿そのものもB5用紙サイズですし何となく時代を感じますね。最近ではB5サイズは殆ど遣うこともないし・・我家には在庫が無いほどです。全てA4になってきましたね。
折角出てきたこの原稿・・・★カレン★の記録として残しておこうと思います。このブログに『ぶん★文★ぶん』として記載しておくと記念になりますね。

こちらの講演は尾張旭市の先生ご父兄に向けての講演会だったと記憶しています。自分も出席しました。タイトルは『12年間の私の日本での生活』となっています。例えば、いま、『27年間の私の日本での生活』というタイトルで原稿を作り始めたら、また異なった視点で、異なった感覚で日本を客観的に見ることが出来るのかもしれませんね。


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1998年2月28日

12年間の私の日本での生活
福山 カレン


只今ご紹介頂きました福山カレンです。私が尾張旭市市内の3つの中学校に勤務するようになってから4年の月日が流れました。私の日本語はまだまだですが、今日は私がどうして日本に住み、私が感じることや、外国人にとって日本に住む難しさなど、色々とお話をしたいと思っております。

『国際化』と叫ばれるこのごろですが、先日行われました長野オリンピック、近い将来2005年には、ご当地にて開催が決定いたしました万国博覧会など、世界が小さく、また近く感じられるようになってまいりました。
『国際化』という言葉自体が大変抽象的で、真の意味合いについてはなかなか説明の付く言葉ではありません。しかし、日本は経済面でも非常に世界の中心的存在であり、世界の流れから取り残されることはなんとしても回避しなくてはなりません。私は職業を持つ一人の女性であり、妻であり、芸術家であり、教育者でもあります。私がお話しすることはあくまでも一個人の意見であり、それを皆さんに押し付けるものではありません。私自身の意見、そして助言としてお聴きいただければ大変うれしく思います。

私はイギリス・イングランド北部、西ヨークシャー・ブラッドフォードという町で生まれました。小説『嵐ヶ丘』や『ジェーン・エア』などで有名なエミリーブロンテ三姉妹の故郷でもあります。人間の数よりも羊の数のほうが多く、広大な丘陵地帯が広がり、のんびりとした風光明媚な町です。高等学校まで地元で暮らしました。この頃は外国といってもヨーロッパへの修学旅行以外には訪れたこともなく、イギリスも日本も同様で島国なので、外国を訪れるような必要性もありませんでした。ところが、大学進学がロンドン市内の音楽大学に決まり、そこから私の人生は少しずつ変わっていったように思います。私は地元、家族の元を離れるのがつらく、ロンドンで生活するようになってもホームシックで毎晩のように枕を濡らしていました。私は音楽の専門的な勉強をしたかったので大学生活そのものには全く不満は無かったのです。のんびりした田舎町で育った私にとって、ロンドンの雑踏や人口密度の濃さはショックであり、脅威であったのです。また、下宿に帰宅しても家族はなく、それはそれはつらい日々を送りました。休暇になってヨークシャーに帰るのだけが唯一の愉しみで、休暇が終わり、ロンドンに戻るのがまた辛く涙が止まりませんでした。18歳の頃の辛い思い出です。

そして、ロンドンでの生活にも少しずつ慣れてきて、一年経った9月に主人に出会いました。私の知らない国、日本からの留学生で大学院の一年生として私の通っていた音楽大学に入学してきたのです。日本で大学学部を卒業し、英国に来た主人は年齢もかなり上で、当初の私にとっては全く関係の無い存在でしかありませんでした。また、私は日本のことは教科書に出てくる程度のことしか知識が無く、名古屋という町など知る余地もありませんでした。主人と知り合っても長い期間、恋人同士というよりは友人関係を続けておりました。その後、名古屋という地名を知ったのも、ソウルオリンピックが開催地として決定したときに名古屋も開催候補地として大変有力でした。落選したときに大きく新聞で報じられ、初めて名古屋という地名も知ったのです。しかし、その頃でもまさか自分がその名古屋という町に住むなんて考えたこともありませんでした。

主人が大学院を終了する年のバレンタインデーに主人から交際の申し込みを受けました。その頃、もうすでにお互いの気持ちの中には恋人のような感情は芽生えていたように思います。主人もお互いの気持ちを確認したかったようです。私は『考えさせて!』とじらしながらもOKをだしました。学生同士の交際ですから、勿論結婚など眼中にはありませんし、いつかは主人が日本に帰国すると同時にこの恋愛も終わってしまうのかなと考えるしかありませんでした。

現在、主人は私と同じようにピアニストであり、教育者であり、実業家です。当時、大学院を修了した主人は英国に残り、音楽大学の教授のレッスンを受けたり演奏活動をしたりで、ロンドンで悠々自適な『プー太郎』生活を送っていました。私はこの人は何を考えて生きているのかと不安になりました。しかし理性的に考えれば『プー太郎』の彼氏では物足りないものの『感情』は理性だけではコントロールできるものではありません。そのまま恋愛関係は進行しました。

そして、一年後、主人は主人のお父様から一通のお手紙を受け取りました。それは『日本に帰って来い。』というもので、私もこの恋が始まるときに覚悟はしていたものの真剣に来るべきときが来たと思いました。
そして、一ヶ月ほどして主人は日本に帰りました。それからは毎日手紙を書きました。今でこそ、『遠距離恋愛』、『遠恋』という言葉がありますが、当時はまだそんな言葉もありませんでした、成就しないかもしれない恋のために、地球の裏側の日本に私は毎日、毎日手紙を書きました。ところが、うちの主人ときたら、一ヶ月に一度くらい返事をくれるだけで何の音沙汰もなく、気が向くと国際電話をかけてくるぐらいでした。なんとも薄情な人だと情けなくなりました。

そして『遠距離恋愛』が一年ほど経った頃、そんな薄情な主人も彼の両親にはイギリスに恋人を残していることを話してくれていたようです。主人の家族から日本に招待されました。1985年の春のことです。その頃、私ももう学部を卒業し大学院も修了し、ロンドン音楽院でオーケストラ・マネージャーの仕事についていました。イースターの休暇と有給休暇を利用して二週間のホリデーで主人の国、日本に来ました。

季節は桜が満開でとても美しく暖かい三月でした。主人は仕事でニュージーランドから成田の新東京国際空港に到着し、同じ朝、私もロンドンから成田に到着しました。
一年ぶりの再会でした。そして成田のリムジンバスのバス停で主人は私にプロポーズしてくれました。勿論、私もプロポーズは期待してましたが、もう少しロマンチックなシチュエーションのプロポーズを想像していました。バス停でせかされるようにされたプロポーズはなんともあっけないものでした。

そして、主人の両親に温かく出迎えていただき、主人の両親には私から結婚の意志を表しました。主人の両親は大変喜んでくれました。私自身もとてもうれしく思いました。

二週間のホリデーは夢のように幸福なものでした。そして、あっという間に過ぎていきました。

イギリスに戻り、私の両親に報告をしました。勿論、私の両親は日本を訪れたことなど一度もありませんし、ヨーロッパでさえも旅行したことの無いほどでしたから、そう簡単に理解はしてもらえませんでした。
主人が婚約指輪を持って英国にきてくれたのはそれから二ヶ月ほどしてのことでした。主人は私の両親の目の前で私に婚約指輪をくれました。両親も『おめでとう。』を言ってくれました。そして、主人が日本に帰国してから私の本当に辛い日々が始まったのです。

両親は私に主人からの婚約指輪を身につけることを赦しませんでした。そして、この婚約には賛成は絶対に出来ないと言い出しました。私は自分がどうすれば良いのかわからなくなりました。辛く悲しい毎日でした。日に日に体重も落ち、考えて考えて、考え抜いた挙句の果てに、1985年10月、私は主人に『今までのことは無かったことにしよう。』と手紙に書きました。私にとっては人生の中でたった一度の最大のギャンブルでした。

もし、主人に本当に『心』があるのならきっとイギリスに飛んできてくれるはずだと信じていたから、その手紙を書きました。私がこれだけ辛いときに助けてくれない人なら一生添い遂げることなど不可能だと思ったからです。主人はすぐに英国に飛んできてくれました。
そして、主人は日本への航空券とウェディングドレスをプレゼントしてくれて日本に帰っていきました。イギリスに一人残った私は自分の人生、祖国、家族、友人、そして主人の狭間で苦しい毎日を送りました。私の大切な両親を一度だけ裏切ることになる。でも、私が幸せになることは、両親の幸せにもなるはず。考え尽きることはありませんでした。時間はかかるかもしれない。でも、いつかは両親にも解ってもらえるはず。自分を信じて、そして、主人を信じて、そして両親を信じて、1985年12月20日、日本にこれからの自分の全てを託して飛行機に乗り、来日したのです。言葉もわからない、習慣や風土も異なるこの国で自分がどうやって生きていけるのかもわかりませんでしたが、この国と主人に全てを賭けました。

来日して一週間経った1985年12月28日、南山カトリック教会で私と主人は結婚しました。皆さんもご存知の通り、イギリスはカトリックの国ではありません。主人はカトリック信者ですが、私はイギリス国教(Church of England)の信者です。アイルランドの内戦もこの二つの宗教が源になっているのですから、宗教の違いも大きな壁になることがあるのです。

主人の父が南山学園・南山中学高等学校にて理事をしておりました関係上、翌年4月からは南山中学高等学校男子部にて英語科教員として教壇に立つチャンスを与えられました。ここで初めて音楽以外の仕事に付いたわけですが、私はこの英語教員の仕事に取付かれてしまいました。英語教育に魅力を感じた私は色々なことを勉強し、より良い授業が展開できるように励みました。そして、南山中学高等学校男子部から国際部(現在:南山国際中学高等学校)に転属となり、帰国子女のための英語教育に没頭しました。

帰国子女のための学校では、両親の仕事などで海外での生活が長く、日本の学校での通常の生活になじめない子供達や、日本人であるにもかかわらず、海外生活が長く、母国語であるはずの日本語よりも他の言語を得意とする子供達を対象としています。
ですから、私と同じように英語を話す日本人の子供たちに英語を教育するということが私の仕事になりました。日本の国語の教員のような仕事です。教える英語は非常にハイレベルで私自身も勉強が必要でした。

その頃、主人も南山国際中学高等学校で音楽教員として勤務しておりました。ですから、家族でも職場でも私と主人は一日24時間をともに生活していました。主人の父は生まれながらの教育者でしたから、学園理事の仕事をしながらも教壇を離れることはなく、一週間当たりかなりの授業数をこなしておりました。生徒の中には一日に父・福山徹、主人・福山孝、私・福山カレンの福山親子三人の授業を受けるものも居ました。考えてみれば同族会社のような学園になってしまったわけです。そうなってきますと、主人の立場からは、いくら南山学園で良い仕事をしても他人の目には『親の七光り』にしか見ていただけない部分が出てまいります。主人もかなり悩んでいたようですが、主人の父はその頃には学園理事と同時に『学監』という役職についておりました。その父が定年で退官するときに主人も私も南山学園を離れることに決めました。それが今からちょうど4年前(1994年)のことになります。

その後、主人は音楽の演奏活動を続けながら、名古屋市内の専門学校などで英語講師を務めています。主人は私が働くことを歓迎しています。南山学園を離れて私が職場を探しているときに『アルティア』という会社に出会いました。この会社の仕事は日本全国の行政、教育委員会に『外国人教員による英語の授業を提供する。』ことです。そして、私はこの尾張旭市と出会ったのです。教育の現場に於いては私達外国人教員はあくまでもALT:外国人教員助手という立場で、厳密には教育者としては認められていません。しかし、私はこの四年間で多くの出会いを持ち、色々なことを勉強しました。そして、この尾張旭市での仕事に打ち込んできました。自分なりに満足の行く仕事をしてきたつもりですし、協力できる範囲では全ての力を尾張旭市内の三つの中学校の先生方とともに努力してきたつもりです。至らないところもたくさんあったかもしれませんが、私は手を抜いた仕事は出来ない人間ですから、一生懸命自分の仕事をこなしてきました。

自宅が名古屋市天白区の平針にございます。出勤には少々時間がかかりますが、車の運転も大好きですので気になりません。そして、この尾張旭が大好きになりました。
こうして私は今、尾張旭のALTとして勤務しているのです。


ここで、外国人が日本で生活する難しさについてお話したいと思います。
まず、私と同じように外国人教員として滞在する場合ですが、私立の学校とは異なり、多くの行政・教育委員会は外国人個人との契約は避ける傾向があるようです。それは若い外国人教員が契約途中で帰国してしまったり、外国人が就労するための労働許可申請は専門知識を持っていないと困難な部分が非常に多いからかもしれません。
私の場合は日本人配偶者なので、労働許可申請の必要はありません。当然、永住申請は『曙』や『武蔵丸』のような外国人力士ならともかく、私のような場合、いつになったら申請許可が下りるのか、誰にもわかりません。私は昨年春に申請書を初めて提出しましたが、一年経とうとしている今になっても返事はまだ来ていません。そのため滞在期間延長申請を三年に一度、繰り返し行わなければなりません、その都度、主人の納税証明書や修了証明書などたくさんの書類を集めなければならないのです。
これは精神的苦痛にもなりますし、かなり面倒な作業になります。私達ALTは公務員ではないので年休や有給休暇は皆さんの想像するほど取ることは出来ません。ビザの取得のために入国管理局を訪れるのにも私の会社から年休を取ることは出来るのですが、仕事の内容、教育者であること、授業進行などの面を考えましても、そう簡単に丸一日の休みを取ることは出来ません。ですから半日だけの休みをいただいたり、数時間だけの休みをいただいて、入国管理局に申請の手続きをするよりほかには道がないのです。10年ほど前は申請と同時にビザの取得が出来ましたが、現在では申請して二週間ほどしてから取得という形式になっているので、1回の申請でも2回、入国管理局を訪れなくてはならないのです。それは学校に対しても非常に迷惑なことですが、日本のシステムなので仕方が無い部分でもあるのです。

ここで入国管理局でのエピソードをお話したいと思います。
私がまだ尾張旭市に来る以前のことですが、主人も私と結婚しなければ入国管理局などに足を運ぶ必要は全く無かったのです。今日ここにお集まりの皆さんの中にも入国管理局がどんなところで何をしているところなのかご存じない方も多いかもしれません。日本人である皆さんには全くと言ってよいほど無関係な場所です。入国管理局は法務省の管轄で、日本人の皆さんもパスポート申請の時にはお世話になっているはずです。また、出入国の際には入国管理局のスタンプをいただくはずです。外国人が日本に入国する時には一般的にはツーリストビザとして、半年間の滞在期間が与えられます。私も1985年に初めて来日したときにはこの半年間のツーリストビザで入国しました。しかし、主人と結婚して旅行者ではなくなったわけですから、滞在資格を『旅行者』から『日本人配偶者』に変更しなくてはならなかったのです。当然、その頃の私は日本語が全く話せませんでしたし、主人無しでは入国管理局を訪れるのは不可能でした。そこで主人と私は入国管理局を初めて訪問したのです。そこで見たものは法務局の職員達に怒鳴られる外国人。一瞬、ここは時代錯誤か、軍国主義かと疑う気持ちになりました。私たち西洋人に対してはまだまだ対応は良かったのですが、当時から騒がれるようになった『ジャパ行きさん』と呼ばれる人々の日本への流
入、在日の韓国や朝鮮の方たちに対する日本人職員の対応ときたら横柄この上ないものでした。主人も驚いて言葉を失っていました。パスポートといえば外国に於いては命の次に大切なものにもかかわらず、デスクカウンターに叩きつけたり、私自身のパスポートも折れ曲がって返ってきたこともあります。なんとも物々しく、人権が無視されたような雰囲気がありました。ここ数年『サービス向上』をモットーに若干の改善は見られるようですが、当時のことを思い出すと身の毛もよだつ思いがします。
私には福山カレンという立派な名前があるにもかかわらず、人を囚人のように番号で呼び、言葉一つ一つも投げやりで親切のかけらさえ見ることが出来ませんでした。外国人の多くが日本語を不得意としていることは理解に難しいことではありません。入国管理局内は日本語以外の説明やサインや看板は殆ど無く、私も主人が居なかったら泣いて帰るしかなかったと思います・
そして、三年後、主人は仕事で私のビザ更新に同伴することが出来ず、主人の母が私と一緒に入国管理局に来てくれました。主人がその対応の悪さを事前に説明したのですが、主人の母は日本にそんなところがあるはずはないと信用しようとはしませんでした。そして、現状を目の当たりにした母は唖然とし、怒りと落胆でとてもショックを受けました。『私は60年以上も人間をしてきてこんなに失礼を受けたのは初めてだ。』と息子である主人に力説したものです。母は『私は新聞に投書する!』と言い出し、原稿を書き始めました。主人は『そんなことしても何の得にもならないから。』といって、母が新聞社に投書することをなんとか阻止しました。母は憮然としていましたが、それも嫁である私のことを思ってのことであり、母の愛情かとも思っています。

そして、昨年の春、私が滞在期間延長申請と永住申請を同時に行ったとき、さすがの主人も堪忍袋の緒が切れてしまったようです。10枚にわたる苦情の手紙を入国管理局に出したのです。私はそこまでしなくても・・・・と思いましたが、主人は納得できなかったようです。主人の苦悩の手紙は全て固有名詞で担当された人の名前や私の名前、主人の名前や住所も匿名にはせず、かなり大胆な手紙を書いたようです。その手紙のために私のビザに影響してはと主人も手紙の最後に『このことが家内のビザ取得に影響の無いことを切望します。』と書き加えていたようです。申請から一年が経過しましたが永住申請に関しては主人の手紙が影響しているのかもしれませんね。
主人が手紙を書いてから数週間後、入国管理局総務課より一通の返事の手紙が送られてきました。それは謝罪文とも読み取れますが、結局はおやかた日の丸的な文面で、局長が新しく変わり、『サービス向上』をモットーにがんばっているので、これからも色々とご意見をお寄せくださいとのことでした。国際化と騒がれる昨今です。日本の玄関口を取り仕切る入国管理局にしては甚だ国際化とは何なのか取り違えているように思えてなりません。

今までに私は日本のお役所のことを色々とお話しましたが、日本で生活しておりますと本当に色々なことが日々起こるものです。
生活の中で私が経験する色々なエピソードについてお話したいことがあります。私が来日した13年も前の頃はまだあまりにも外国人が日本には住んでいませんでした。だから日本の皆さんもあまり外国人、特に西洋人には出会う機会が無かったように思います。ですから、笑ってしまうようなことが本当にたくさんありました。
例えば、スーパーマーケットに買い物に行くと子供達が『外国人!外国人!』とか、『外人!外人!』と、よく指をさして言いました。子供のすることだからと思ってあまり気にも留めませんでしたが、ひどいときにはお母さん達がお子さんに『ほら、見てごらん!外人だよ!』といって指をさすのには甚だ驚きました。私は見世物のように指を挿して見上げられていました。なんとも自分のことが哀れに思えてなりませんでした。この程度のことは日常茶飯事で車を運転していても結構面白いことがあります。主人が運転していて私が助手席に居るとします。交差点の信号で信号待ちをしているときに隣の車を運転している人が私が外国人だとわかるとわざわざ車を前に少し出して、運転している主人が外国人かどうか確かめようとするのです。私もコレには噴出してしまいました。人の車の中を覗き込むようにして『なぁんだ、日本人か。』というような顔をするのです。最近では茶髪の若者が増えてきたので、私もかなりジロジロと見られるようなことはなくなって安心して出歩くことができるようになりました。笑い話のようなことですが、本当に毎日このようなことの連続でありました。おかしなことはコレだけではとどまりません。私はもうこの国に13年も住んでいるのですが、未だに皆さんと一緒に食事に出かけると、『お箸が上手ですねぇ。』とほめていただけます。しかし、13年も日本人の主人と一緒に生活していて、未だにお箸一つも使えないようでは日本人の妻は務まりません。日本の風土や習慣を習得することはとても難しいことですが、主人の両親や主人に支えられてここまで日本人の妻をできるようになりました。

結婚して新婚生活が始まったころ、主人が突然に私に対して厳しくなりました。それは今考えてみると主人の愛のムチだったのかも知れませんが、当時の私にとっては大変辛いものでした。和食の料亭や、居酒屋のお座敷に上がるときも主人は私に脱いだ靴を揃えさせました。どうして私がそんなことまでしなくてはならないのかと涙が出そうな気持ちになりました。しかし、そのようなことが続くと私もこの国で日本人の妻として生きていくために自分の目を見開いてどこへ出かけても失敗の無いように日本人の行動を観察するようになったのです。縁起でもないお話ですが、例えば、お葬式に出かけなくてはならないときでも、私はご焼香のあげ方も知りませんでした。主人は絶対に事前に私にどう振舞うか説明することはありませんでしたから、私は主人のすることを一生懸命後ろから観察して同じようにご焼香をあげました。これは大成功で恥ずかしい思いをすることもなくお葬式の会場を後にすることが出来ました。
しかし、私は主人や他の日本人の行動を観察することにも慣れ始めた頃、、今度は結婚式で大きな失敗をしてしまいました。何をしたかといいますと、その結婚式では主人と私はお仲人の大役をおおせつかったのです。普通一般的にはお仲人さんは黒の留袖で参列するのですが、私は日本人でもございませんし、教会式ということもありまして、自身のアイデンティティーも大切にしようと思いました、主人も賛成してくれたので黒のスーツでその結婚式に参列いたしました。そして、親族と参加者一同の集合写真のときに新郎と新婦、それぞれの隣に私と主人が着席させていただきました。
新婦は手にブーケを持っておられますし、親族の皆さんは皆黒の留袖を着ていらっしゃるので前列の女性の親族の方は手に扇子をお持ちになっておりました。私は初めての経験でもございましたし、手にはブーケがあるわけでもなく、扇子を持っているわけでもありません。写真を撮られるにもかかわらず、自分の手をどうすればよいのかわからなかったんです。そこで、隣の新婦、新郎の向こうに座っている主人に目を向けてみました。主人は握りこぶしを両手で二つつくり、膝の上に置いておりました。『あー!こうすればいいのかぁー!』と私は思いました。そこで、私も握りこぶしを二つ膝の上に置いて写真に納まったのです。写真屋さんも私が日本語が話せるかどうか解らなかったのでしょう、何も仰ることは無かったです。
なんと、仲人さんの奥さん、握りこぶしとともに写真に永遠に残ってしまったのです。恥ずかしいエピソードの一つです。この結婚式の後にも何組かのお仲人を勤めさせていただいておりますが、膝の上で両手を重ね、写真に納まるようにしております。
他にも我家ならではの出来事は幾つでもございます。
英語にも方言はございます。しかしながら男言葉や女言葉などという区別ははっきりしたものがあまりないのです。私が日本語を少しずつ理解できるようになったころ、私が参考にした日本語は私に一番近い存在である主人の日本語でした。ですから、私は自分のことを『ぼく』とか『おれ』と呼ぶようになってしまいました。主人は最初は気にしていなかったようですが、私が主人の友人の前で『ボク』と言ってしまったときには主人も恥ずかしい思いをしたようです。それからというもの、主人は家では女言葉を使うようになりました。それは私が正しく主人の妻として、また福山家の嫁として日本語が使えるようにとの主人の努力だったのかもしれませんが、うちの主人ときたら、それがしっかり身に付いてしまったようで、それ以後、主人の日本語のほうがなんだか危ない人のようになってしまったのです。本当に色々なことがありました。

ある意味でうちの主人は要領のいい人なのかもしれません。また、ある意味で順応性があるのかもしれません。といいますのは毎日の日本での生活に於きましては車に乗り込むときでも私のドアを開けてくれたりすることは全くありません。デパートでエレベーターに乗るときも自分がさっさと先に乗り込んでしまう人なんです。私達夫婦は毎年クリスマスの季節には必ずイギリスに帰るのですが、イギリスではうちの主人、完璧なジェントルマンを演じる人なんです。車に乗り込むときもわざわざ助手席のドアまで来てドアを開けてくれます。どこへ出かけるときもレディーファーストを忘れることはありません。まるで、自分がお姫様にでもなったような気持ちにさせてくれます。勿論私の両親も居るわけですから良い婿を演じるために彼なりに気を使っているのかもしれませんね。
ただ、夢心地でイギリスでのホリデーを過して帰国した後は現実に引き戻されるようでとても悲しく思います。飛行機が日本に到着して一歩日本に入国した瞬間から彼は普通の日本人の男性に戻ってしまうのです。
男尊女卑的な感覚はうちの主人にはないと思いますが、私の文化であるレディーファーストというものは彼にとっては異文化にしか過ぎないのかもしれません、そんな主人もとても優しいところもあります。
先ほど、プロポーズのシチュエーションが成田空港のバス停で想像していたものとはあまりにもかけ離れて、あっけないものだったと言うお話をしました。イギリスでは男性が女性にプロポーズするときは方膝をついて両手を広げ婚約指輪を掲げ『Will you marry me?』と、丁度シェークスピアの『ロミオとジュリエット』のワンシーンのように愛の告白をしてくれるものです。私もそんなプロポーズを夢見ていましたが、現実はかなり厳しく、飛行場のバス停で『結婚してやるよ!』って言われただけでした。だから私は結婚してからも『プロポーズされていない!』といい続けていました。
結婚して10年目を迎えた私の誕生日のことです。私は二月生まれですが、とても寒がりなのです。ですから冬はストーブの子守をしているときが一番の幸せを感じます。
その日、主人が仕事から帰宅したとき、私はいつものようにストーブの子守をしていました。主人が一言、『目を瞑ってごらん。』言ったので私は目を瞑りました。
そして、主人が『ここは10年前の成田空港のバス停だよ!』と言いました。目を開けると方膝をついて両手を広げた主人が私の前に居ました。主人は『Will you marry me?』といって、そっと私の指にスイートテン・ダイヤモンドの指輪をはめてくれました。それから私は二度とプロポーズの愚痴をこぼしたことはありません。やはり、そんな優しい主人ですから国際結婚の困難も二人で乗り越えていけるのかもしれません。

国際結婚のカップルは最近増えつつありますが、日本人女性と外国人男性のカップルはその反対即ち、私達のように外国人の女性と日本人の男性のカップルよりも上手くいく可能性が高いといわれています。それは日本の伝統的なものの考え方でもあった『男尊女卑』的な感覚にはレディー・ファーストの文化で育てられた私達西洋人女性達がなかなか耐えられないからだと思われます。また、その逆に日本の文化で育った女性にしてみると、女性を大変大切にする西洋の文化の中で育った男性に優しくされることを教えられ幸福をつかむ女性が多く居るようです。国際結婚といっても東洋人同士の国際結婚もあれば西洋人同士の国際結婚もあります。人種を超えた国際結婚もありますので一言で国際結婚といっても本当に色々なパターンが見られるのです。しかし、あくまでも人間同士の結婚には他ならないのですが、どうしても特殊な目で見られがちなのも事実ですし、人種、国籍を超えての結婚ですから、風土、習慣、文化も全く異なり、そこに生じる困難はみなさんが想像されるよりもはるかに難しい部分もあります。
私達夫婦には子供がありません。私達は二人とも教育者であり、多くの子供達を見てきました。また、私達にも両親が居るように、私達の子供にとっては私達が両親になるわけです。母親として今ならば日本語も話せるようになりましたし、読み書きも随分できるようになりました。しかし、結婚当初の私は日本語の能力はまったくありませんでしたし、話せるようになれるには長い月日が必要でした。若さにまかせて子供が出来ていたらそれなりに母親業をこなしてきたのかもしれません。しかし、当時の私にはそれだけの余裕がありませんでしたし勇気もありませんでした。事実、私達の身近にも主人の先輩と結婚されたカナダ人の奥さんは子供を3人出産してノイローゼになってしまい、一時は帰国されてしまったケースも見てきました。また、その反対にドイツ人の奥さんは一人の男の子を出産され、ドイツ語と日本語のバイリンガルに近い状態に育てられ、奥さん自身も職業婦人を続けておられるケースもあります。このようなケースは非常にまれなことだと思います、主人が恐れていたのは子供が成長するにあたって、イギリスに住むおじいちゃん、おばあちゃんとロクに会話が出来ない孫になって欲しくないこと。そして、一番に母親として私の日本での生活を十分に習得していることなどの条件を考えたとき、私達夫婦にとって、子供の存在そのものの難しさの壁にぶつかったのです。いくら家庭で英語を使おうとしても、テレビやラジオ、友達との会話など全ては日本語で行われるのですから、英語も日本語も子供に100%を望むことはとても難しいことです。先ほどお話に出たノイローゼになってしまったカナダ人の奥さんの長女は小学1年生まで言葉が出なかったそうです。勿論、子供の成長はすばらしいですから、年月を経て克服できる部分はあるのですが。また、虐めの問題も考えなくてはなりません。子供が幼稚園に通うようになりますと、大人の目から見ますとハーフの子供達はとても可愛らしくまた美しく見えますが、子供同士の世界では自分たちと異なる子供、即ち虐めの対象になるケースも少なくないのです。幼児の世界ではみんなと同じであることもとても大切です。それは後の社会生活の中での協調性を養います。勿論、そこには成長とともに個性の出現が無ければならないのですが、子供達が始めて出会う社会生活、即ち幼稚園、保育園、または小学校などでの学校教育においてはいくら大人が可愛いとかきれいとか思っても、子供達の目には下手をすると宇宙人のようにしか映らない場合もあります。それは子ども自身のストレスを生むことにつながりますし、親にとっても辛いことになるのです。

大人である私自身でさえも、私にとっての外国:日本の社会の中で生活することは、自分が気が付かないうちに自分自身の精神面や肉体にかなりの負担をかけていたようです。昨年はじめて診断されたのですが、文化の異なる世界での生活が私の肉体に知らず知らずのうちにストレスとして蓄積され、心臓が十分に働かない状態だとお医者様に言われてしまいました。私は自分自身が精神的に弱い人間だと非常に悲観していたのですが、そのような思考回路では打開策は見つかりません。主人も人生を楽しみながら身体と精神に負担をかけないように病気と仲良く生きていくほうがいいといってくれているので、思いつめることもなく毎日を送っています。
そして、自分の心臓のことを考えると、もう子供を産めないかもしれませんが、毎日たくさんの子供達に囲まれての仕事は自分にとってとても大切な人生の一部になっています。

この尾張旭でのお仕事も行政、教育委員会が来年度の契約を私が勤める会社『アルティアセントラル』と交わすことが無ければ私は他の地域に行かなくてはなりません。それが公務員ではない私達民間会社の定めです。
私達ALTはある意味で英語を話し、その英語を使った授業を提供する商品でしかありません。人間として扱われるわけではなく、より安い値段で教育委員会を通し、授業という商品を入札という形で商品化されています。
私は生徒達のために教材や道具を準備します。私達ALTもプライドがありますから、他のALTよりもよりよい授業を供給したいと思っていますが、最終的には私個人が評価されることはなく、より安く外国人の授業を提供できる会社との契約を行政は求めている場合が多いように思います。
そのように個人としての評価をされることもなく、教育現場でより質の高い英語教育を受けるチャンスを子供達にと言う概念を持たないことは、私達ALTにとってはとても大きなストレスです。今現在、この尾張旭市も私の会社とライバル会社を天秤にかけているようですので、私が来年、この尾張旭市の教壇に立っているかどうかは定かではありません。市内三つの中学校の卒業生の皆さんや在校生の皆さんには本当に愉しい思いをさせていただいております。私は尾張旭の先生方とも親しくさせていただきうれしく思っています。来年度は他のALTが来ることになるのかもしれませんが、外国人も皆同じ人間であることだけは忘れないで居て欲しいと思います。
自画自賛になってしまいますが、私はこの仕事について教育現場での生活も長く、また、他の若い外国人ALTよりは経験も豊富だと思っております。この仕事を続けるために通信教育でTEFLという資格も取得しました。
外国人ならばALTは誰でも良いという評価ではなくクォリティーの高いALTを選ぶよう評価していただかない限り、日本の英語教育は発展を遂げるのが難しいのではないでしょうか。実際に、韓国や中国の英語教育はどんどんとすすんでいる現状です。英語を勉強しても話すことが出来ないような理解力では実用的ではありません。日本語でも話すことが出来るからこそ、他の人々とコミュニケーションをとることができるのですから、使えない英語ではどれだけ勉強しても大学入試準備の学問にしか過ぎないことになってしまうのです。13年前、全く日本語を話せなかった私でもこれだけ話せるようになったのですから、学校教育でも使える英語を教えるようにならなくてはいけないと思います。

長くお話してきましたが、今日はうちの主人もこの会場に来ております、。もし何かご質問がございましたら私たちでお答えできる範囲でお答えしたいと思います。主人を皆さんに紹介させてください。
『福山孝』です。

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こうして質疑応答が始まったのです。
とても愉しい時間でした。
14年前のお話ですから・・・・・
ちょうど★カレン★が日本に来て今までの半分位を過したところですね。
今年で28年目ですから・・・・・・

とても懐かしい原稿です。
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映画 『戦場のピアニスト』 [『ぶん★文★ぶん』]



日本では2002年に。。。。即ち10年前に公開された映画です。

さぁ。。。映画のことはよくわかりませんが、
印象的には逃げ惑う映画。

英語タイトルは『The Pianist』・・・
我々ピアニストにとっては非常に魅力的なタイトル・・

そして自分はショパンが大好きですから・・・・。

10年間あたためてきたショパンの作品・・・・
ショパンのノクターンの中でも遺作は数曲あります。
その中の20番・・・・

この映画で非常に有名になった作品です。
動画のなかで最初に流れる楽曲です。
あまりにも物悲しい旋律・・・・そして、ユダヤ人の歴史など・・・

研究を重ねるとなかなか舞台に上げることができなかった作品。。。。
そんななか、10年前にこの映画に出会い、
またまたこの楽曲のバックグラウンドが自分中で悲しいものとなっていきました。

しかし、自分の年齢を考えるとき、
これからどれだけステージに立てるかわからない。。。。

今がそのときかなって思い、今年の秋のツアーでの演奏を決めました。

ショパン、そしてこの楽曲に思いを寄せた人々のために。。。。
また、自分自身のためにも。。。。。

追記:この動画で1:08秒から流れるグランドポロネーズ
この映画本編では最後のクレジットで流れるのですが、
自分の名古屋音楽大学の卒業試験の楽曲であり、
デビューリサイタルのメイン楽曲でした。
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